西新宿の今昔物語~新都心歴史さんぽ~ 第8回

【連載/歴史散歩】成子坂と成子地蔵尊、成子の由来は酒屋の鳴子説あり!

文●西新宿LOVEWalker

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成子坂(『武蔵名勝図会』)

 第7回では、西新宿一帯の地名にもなった青梅街道の神田川に架かる橋「淀橋」についてご紹介しました。今回は、青梅街道を新宿駅方面から淀橋に向かって下る坂「成子坂」と「成子地蔵尊」についてご紹介します。

※過去の連載記事はこちら:西新宿の今昔物語~新都心歴史さんぽ~

成子の起源は酒屋の鳴子

 現在の西新宿6~8丁目一帯は、江戸時代末から昭和7年(1932)10月に淀橋区が成立するまで、成子という字名(あざめい)でした。この連載の第3回でご紹介した成子天神社の社号はこの地名に因むものです。

 成子の由来は次のようなものです。この地に源左衛門という者が住んでいました。源左衛門は青梅街道に筵(むしろ)を張って、濁り酒などをおいて商いもしていました。その店先には、鳴子と綱が取りつけられ、客は綱を引いて鳴子を鳴らして合図しました。それが知られてこの辺りを鳴子と呼ぶようになり、転じて成子となったと伝えられています。源左衛門は近くにある常圓寺を開いたとも伝えられ、この辺りの有力者であったことがうかがえます。

 地名の起源については異説もあります。この辺りは神田川沿いに水田がひろがっていたため、水田を鳥獣の食害から護るために村人が建てた寝小屋(ねごや。鳥獣を監視するための仮の小屋)があり、そこに取り付けられた鳴子が起源だというものです。

 なお、成子と書くようになったのは、江戸時代後期の文化・文政頃(1804~1830)からだと考えられます。

現在の成子坂(坂下から新宿駅方向を望む)

悲しい言い伝えのある成子地蔵尊

 成子坂を淀橋方向に下ると、左手に成子地蔵尊があります。正しくは成子子育地蔵尊(なるここそだてじぞうそん)といい、地蔵堂内に安置されています。この地蔵尊には、悲しい言い伝えがのこされています。

 成子坂は、かつては豊島坂あるいは鳴子峠と呼ばれ、松や柏が生い茂る嶮しい坂道でした。その時代、中野に住む貧しい農民が一人息子を江戸に奉公に出しました。その息子が藪入り(やぶいり。旧暦の1月16日と7月16日に奉公人が実家に帰れる日)で帰ってきますが、迎えるための支度が何もありません。そこで父親は悪心を起こし、青梅街道を通る旅人から物を奪おうとし、夕闇にまぎれて成子坂にやってきました。そして通りがかりの旅人を殺して財布を奪い、急いで帰宅しました。

 帰宅してその財布をあらためてみると、何とそれは奉公に出る時に息子に持たせてやったものでした。父親は息子を手にかけたことを知り、悲痛のあまり自らも命を絶ったと伝えられています。村人たちは、親子の死をあわれみ、その供養のために建立されたのが、成子地蔵尊だということです。

 地蔵尊は、第二次世界大戦の空襲で被害を受け、昭和26年(1951)に再興されたものですが、台座には享保12年(1727)に圓心の発願(ほつがん)で建立され、天保9年(1838)に文仙の発願により再興されたことが刻まれています。かつては幼子を失った人たちの供える線香の煙が絶えず、毎月11日と22日には縁日が立ったそうですが、縁日は大正12年(1923)頃、交通の支障となるため廃止されました。西武軌道が淀橋~荻窪間に電気鉄道を開業したのは、大正10年(1921)8月のことです。

 成子地蔵尊は、子育て、家内安全に霊験があるとされますが、この辺りは青梅街道の成子宿であり、中野の宝仙寺や杉並堀ノ内の妙法寺への参詣客など江戸と近郊を行き来する通行人も多かったことから、街道の安全祈願という目的もあったと考えられます。なお、現在の地蔵堂は平成14年(2002)7月、西新宿6丁目地区の再開発事業に伴い建て替えられたものです。

左)成子子育地蔵尊/(右)平成14年に建てられた地蔵堂

成子通りと西武軌道(『東京 淀橋誌考』昭和6年)

将軍家にも献上された「鳴子ウリ」

 成子町一帯は、ウリの産地として知られていました。江戸時代のはじめ頃、将軍家が美濃国本巣郡真桑村(現在の岐阜県本巣市)から農民を移住させ、マクワウリを栽培させたと伝えられています。小型のマクワウリで、はじめは四谷方面が産地で「四谷ウリ」といわれましたが、市街地化したため成子一帯に移り「鳴子ウリ」と呼ばれました。成子坂の治左衛門はウリ作りの名人とされ、毎年夏には将軍家にも献上していました。成子天神社の境内には、JA東京グループによる「江戸・東京の農業 鳴子ウリ」の説明板が建てられています。

「鳴子ウリ」説明板

日本で最初期の総合福祉施設「有隣園」跡

 時代は変わって明治時代のこと。成子天神社の裏手に、日本で最初期の総合福祉施設「有隣園」が開設されました。

 創設者の大森安仁子[アニー・バロウズ・シェプリー](1856~1941)は、アメリカのミネソタ州生まれ。夫の大森兵蔵(1876~1913)とともに日本人の体格向上のための「体育」の啓蒙と指導、セツルメント(地域社会奉仕)の精神に基づく社会福祉事業を目指し、明治44年(1911)に有隣園を開設しました。兵蔵は、明治45年(1912)のオリンピック・ストックホルム大会に監督として参加しており、平成31年(2019)のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」では大森夫妻(竹野内豊とシャーロット・ケイト・フォックス)も登場しました。

(左・右)有隣園記念の碑(新宿グランドウィングビル)

 有隣園は、土地の婦人会の援助を得て経営し、授産所・幼稚園・図書館なども兼ねた施設でした。開設当初は子どもを対象とした遊び場・クラブが中心でしたが、後に拡大されて勤労青少年のための夜学校や診療所なども併設し、大正12年(1923)の関東大震災の時には救護活動を行ったほか、震災後の職業紹介所や託児所も設置しました。しかし、昭和20年(1945)5月の山の手大空襲で全焼し、その後は再建されませんでした。

 有隣園の跡は新宿区地域文化財に認定されており、新宿グランドウィングビル(西新宿8-16)の敷地内には、後続組織の一般財団法人生涯学習開発財団による「有隣園記念の碑」(説明板)が建てられています。

協力・写真提供/新宿区文化観光産業部文化観光課