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スーパースター・マラドーナ逝く…波乱万丈の人生と「日本との縁」

2020年12月05日 06時00分更新

文● 藤江直人(ダイヤモンド・オンライン

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Photo:Chris McGrath/gettyimages

20世紀のサッカー界を代表するスーパースター、ディエゴ・マラドーナが現地時間11月25日に、母国アルゼンチンの自宅で心不全により死去した。60歳になった直後に届いた突然の訃報に世界中が深い悲しみに暮れている。出場した4度のワールドカップと日本サッカー界との間で紡がれてきた縁を介して、波乱万丈に富んだレジェンドのサッカー人生をあらためて振り返った。(ノンフィクションライター 藤江直人)

マラドーナ初来日は「ラッキー」だった

 4年ごとに開催されるワールドカップに4大会連続で出場。優勝と準優勝を一度ずつ経験した軌跡の中で日本サッカー界とのポジティブな接点が何度も生まれ、後にはネガティブな理由で立ち消えになった、波乱万丈に富んだサッカー人生を送ってきたマラドーナが天国へ旅立った。

 ごく近い将来に必ず、世界サッカー界の頂点に君臨するスーパースターになる――日本のサッカーファンや関係者に確信を与えたのが、1979年8月から9月にかけて日本で開催された第2回ワールドユース選手権(現FIFA・U‐20ワールドカップ)だった。

 初出場したアルゼンチン代表は決勝までの6試合で20得点、2失点と圧倒的な強さを発揮して優勝。20歳以下のホープたちをキャプテンとして率いたマラドーナは、6ゴールをあげてMVPに輝いた。もっとも、マラドーナの来日は大会誘致に奔走した関係者にとって望外の喜びだった。

 マラドーナは16歳だった1977年2月に、ハンガリー代表との国際親善試合でフル代表デビューを果たしていた。翌年に母国で開催されたワールドカップでは最終候補25人の中に残りながら、当時のセサル・ルイス・メノッティ監督の判断で大会登録メンバーから外れている。

 アルゼンチンはワールドカップ初優勝を成就させたが、マラドーナは「私の人生に永遠に残る、最も大きな失望だった」と後に語っている。そして、落選理由とされた経験不足を吹き飛ばすかのように、1979年6月のスコットランド代表との国際親善試合では代表初ゴールを決めている。

 ワールドカップ連覇を目指すアルゼンチン代表で、確固たる居場所を築きつつあった。だからこそ、あえてカテゴリーを下げる形でワールドユースに臨む代表メンバー入りしたマラドーナに驚き、サッカー人気がまだ根づいていなかった日本を盛り上げた圧巻のプレーの数々に感謝した。

失意のスペインワールドカップ

 アルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズのエースとして、2度目の来日を果たした1982年1月。3試合で3ゴールをあげた日本代表との親善試合で見せたマラドーナの無双ぶりに、誰もが半年後に迫っていたスペインワールドカップでの大活躍とアルゼンチンの連覇を思い描いた。

 しかし、21歳にして「10番」を託されたスペイン大会は、失意のうちに幕を閉じてしまう。当時のワールドカップは出場した24チームがまず6組に分かれて1次リーグを戦い、各組2位までの計12チームがさらに4組に分かれて2次リーグに臨む形式となっていた。

 ベルギー代表との初戦を落としたアルゼンチンは、2位で1次リーグを突破した。しかし、1位だけが準決勝に進出できる2次リーグでブラジル、イタリア両代表と顔を合わせる「死の組」に入り、さらに最終的に大会を制覇するイタリアとの初戦で1-2と苦杯をなめさせられてしまった。

 対戦するチームはすでに世界中へ名前が知れ渡り、1次リーグのハンガリー戦で2ゴールをあげていたマラドーナを唯一無二の標的にすえていた。イタリア戦ではエースキラーの異名をもつハードマーカー、DFクラウディオ・ジェンティーレのファウルをいとわない徹底マークの前にマラドーナはいら立った。

 続くブラジル戦では常に複数の選手にマークされ、3ゴールを奪われる絶望的な展開の中でいら立ちはピークに達した。迎えた試合終盤。味方選手へ危険なプレーを見舞ったジョアン・バチスタの下腹部を蹴り上げた行為が報復と見なされ、レッドカードによる一発退場処分を受けてしまう。

「本当は手で触れたが、神の思し召しによって許された」

 しかし、4年後のメキシコワールドカップで、25歳になったマラドーナは心身両面で見違えるほど変貌を遂げた。アルゼンチンの優勝とともに「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」と呼ばれたプレーの数々は、突然の死去を介してあらためて世界中へ届けられている。

 伝説の象徴と化しているのがイングランド代表との準々決勝だ。相手ゴール前の浮き球をGKピーター・シルトンと交錯した刹那に、マラドーナの左手にはたかれたボールはゴールに転がり込んだ。シルトンをはじめとする抗議も認められなかった先制点を、マラドーナは後にこう述懐している。

「本当は手で触れたが、神の思し召しによって許された」

 この言葉が「神の手」という呼び方を広めたが、圧巻は3分後の後半9分に決めた追加点だ。センターサークル付近でパスを受けたマラドーナは、ドリブルで60メートル近くを単独突破。シルトンを含めた5人の選手を抜き去り、最後は無人となったゴールにボールを蹴り込んだ。

 ベルギーとの準決勝でも2ゴールをあげたマラドーナは、2点のリードを追いつかれ、劣勢に陥っていた西ドイツ代表との決勝の後半39分にFWホルヘ・ブルチャガの決勝点をアシスト。5得点5アシストと八面六臂の大活躍を演じ、文句なしで大会MVPに選出された。

 名実ともに世界のトップに立ったスーパースターのオーラを、当時の日本を代表する選手たちも身近で感じている。南米選抜のキャプテンとして、マラドーナが3度目の来日を果たした1987年1月、日本リーグ選抜のキャプテンとして対峙した、西ドイツ帰りのDF奥寺康彦(当時古河電工、現横浜FC会長兼スポーツダイレクター)は、こんな言葉とともに23年前を振り返っている。

「彼のドリブルは、当時の誰にも止められなかった」

 未来の代表を背負う日本の子どもたちにも、メキシコ大会以降のマラドーナは計り知れないほど大きな影響を与えていた。

 例えば2000年のシドニー五輪、2006年のドイツ、2010年の南アフリカ両ワールドカップに出場した42歳のMF中村俊輔(現横浜FC)は、インターネットも何もなかった時代を振り返りながら、同じレフティーのレジェンドへ「僕はマラドーナを見て育ってきた」と追悼の思いを表している。

「当時はスポーツショップでビデオを購入して、ドリブルやフリーキックを研究した。そのビデオは今でもたまに見るし、僕にとって憧れの存在だった。たくさんのことを学ばせてもらって感謝しかない」

Jリーグ移籍内定にこぎ着けるも…コカイン使用容疑

 1990年のイタリアワールドカップは、メキシコ大会とは対極的で、「涙」とともに幕切れを迎えている。

 セリエAでの故障もあり、本調子にはほど遠い状態で迎えた3度目のワールドカップ。連覇を目指したマラドーナはブラジルを1-0で撃破した決勝トーナメント1回戦で、4人に囲まれながらも味方の決勝点を導く芸術的なスルーパスを放つなど随所で輝きを放った。

 迎えた準決勝の相手は開催国イタリアで、試合の舞台はマラドーナが市民から英雄として愛されていたナポリだった。試合前にイタリアサポーターをあおり、1-1のまま決着がつかずにもつれ込んだPK戦をアルゼンチンが制し、しかも最後のキッカーがマラドーナだったことから一転して憎悪の対象となった。

 キックオフ前の国歌吹奏時に大ブーイングを浴びせられた西ドイツとの決勝。マラドーナはドイツ国歌に対して、英語の「サノバビッチ」にあたるスペイン語の侮蔑語を口ずさみ続けて仲閒たちを鼓舞した。しかし、アルゼンチンは累積警告などによる出場停止処分で4人の主力選手を欠いていた。

 それでも必死に耐えていたが、後半に味方が相次いで退場。その間には判定の微妙さから大きな物議を醸したPKで均衡を破られ、取り返せないままタイムアップを迎えた。四面楚歌の状況で自らも終了間際にイエローカードをもらったマラドーナは、人目をはばかることなく号泣した。

 その後のマラドーナは日本との距離が一気に縮まりかけた。Jリーグ発足へ向けて名古屋グランパスエイトがマラドーナの移籍内定にこぎ着け、親会社であるトヨタ自動車の最終的な決裁を待っていた。しかし、その矢先の1991年3月に、セリエAのドーピング検査でコカインが検出された。

 15カ月間の出場停止処分を受けたマラドーナは翌4月には帰国していたアルゼンチンで、コカイン使用容疑で逮捕された。グランパスエイトへの移籍話が立ち消えになったマラドーナは後に、20代の前半から使用疑惑が浮かんでは消えてきたコカインに関して赤裸々に告白している。

「初めてコカインを試したのはバルセロナにいた1982年だ。ナポリではいたるところに麻薬があり、ウェーターがトレーに乗せて持ってくるように、簡単に手に入れることができた」

 精神科医も加わったプロジェクトのもとで、懸命に進められたリハビリを終えた後の1993年2月。予選敗退の危機に直面したアルゼンチンを救ってほしいと要請を受けたマラドーナは、オーストラリア代表との大陸間プレーオフで代表に復帰。アメリカワールドカップ出場へチームを導いた。

 4度目のワールドカップを直前に控えた1994年5月。アルゼンチンはフランス代表とともに、キリンカップで日本と対戦する予定だった。しかし、日本政府はコカイン使用容疑で逮捕されたマラドーナへのビザ発給を拒否したため、アルゼンチンチーム自体も来日を中止している。

 迎えたアメリカ大会。グループリーグでギリシャ、ナイジェリア代表に連勝し、優勝候補の一角に浮上した直後のドーピング検査で、エフェドリンを含む5種類の禁止薬物が検出。マラドーナは大会追放処分を科され、キャプテンを失ったアルゼンチンも決勝トーナメント1回戦で敗退した。

 その後、古巣ボカ・ジュニアーズに復帰したマラドーナは1997年、自身の37回目の誕生日となった10月30日に現役引退を発表した。ただ、日本への入国は許可されず、例えばボカ・ジュニアーズが南米王者として出場した2000年12月のトヨタカップでも観戦を断念している。

 事態が一変したのは2002年6月。韓国との共催となったワールドカップ決勝を前に「アルゼンチン観光・スポーツ庁長官特使」として特例が認められ、横浜国際総合競技場で行われたブラジル対ドイツを観戦。これが日本国内における公の場で見られた、マラドーナの最後の姿となっている。

 17歳の時は直前で代表から漏れ、精神的に未熟だった21歳の時は自滅に近い形で2次リーグ敗退。心身ともにボロボロだった29歳の時は決勝で力尽き、最後となった33歳の時は自らの愚挙とともに大舞台を去った。ワールドカップごとにマラドーナの人生を振り返っただけでも、世界中の誰よりもまばゆい輝きを放った1986年大会の前後に、喜怒哀楽のすべてが刻まれていることがわかる。

 勝負の世界に「たら、れば」は禁句だが、それでも周囲の状況を含めた諸条件がかみ合えば、マラドーナは5大会連続で世界の頂点に立っていたかもしれない。伝説の「神の手」や言語道断の薬物使用をあっけらかんと認めた正直さを含めた、永遠のサッカー小僧のような純粋さが反映されたピッチ上のパフォーマンスのすべてが、世界中の老若男女から愛されてきた理由だと思っている。

(敬称略)

※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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