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〈前編〉大阪大学 藤井啓祐教授ロングインタビュー

量子コンピューターは物理法則で許された最強のコンピューターである!

文●石井英男 編集●ASCII

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大阪大学の藤井啓祐教授は、量子コンピューター研究におけるトップランナーの1人。今回は特別に、量子コンピューターの過去現在未来を私たちにもわかりやすく解説していただいた

後編はこちら

あのGoogle論文を査読した日本人教授に聞く

 2019年10月、「量子超越性を達成した」というGoogleの発表は世界に大センセーションを巻き起こした。量子超越性とは、現在のスーパーコンピューターでは長時間かかる計算を、量子コンピューターを使えば遙かに速く実行できることを意味する。Googleは、同社製の53量子ビットの量子コンピューターを使い、現時点で最速のスーパーコンピューターを使っても解くのに1万年かかる問題を、10億倍速い200秒で解くことに成功した。

 この発表は、大きな話題となり、比較対象のスーパーコンピューターを開発したIBMから2次記憶も利用するなどで2.5日でシミュレーションできるといった反論などもあったが、この規模の量子ビットが実際に動作したことは量子コンピューター開発の歴史において、1つのマイルストーンとなったことは間違いない。もちろん、量子超越性を達成したといっても、すぐに量子コンピューターが現実の世界で役に立つわけではないが、その実用化が決して遠い未来の話ではないことを実感させた。

 だが、じつは2000年代まで「量子コンピューターはあと50年経っても実現しない」が国際的な了解だった。つまり量子コンピューターの実装技術は2010年代に入ってから急速に進化を始めた分野なのだ。

 今回は量子コンピューターの現状や課題、将来について、大阪大学 大学院基礎工学科の藤井啓祐教授にじっくりお話をお伺いした。藤井教授は、Googleの量子超越性に関する論文を査読した世界で3人の研究者のうちの1人で、量子コンピューター研究のトップランナーである。インタビューの内容は、前編と後編の2回に分けて掲載する。

エンジニア志望から量子コンピューターに鞍替えした納得の理由

―― まずはじめに、藤井先生がなぜ量子コンピューターに興味を持ったのか教えてください。

藤井 僕はもともと京都大学の工学部出身です。我が家はエンジニアリング一家で、僕もものづくりが好きでした。だから工学部にも『何かモノを作りたい』という思いで入りました。ところが実際に学び始めてみると、イメージしていたものづくりと全然違ったのです。

 僕は『エンジンとか分解できるんだろうなあ』というイメージだったのですが、座学を受けているうちに、エンジンやロボットといった方向性ではなく、大学でしか学べない「ものづくりにつながるような根幹的ところ」をやりたいなと。そこで理論物理周辺を勉強し、自然界の森羅万象を説明するための最も基本的な物理法則である量子力学に興味を持ちました。それが大学3年生くらいの頃です。

 そのうち、『量子力学そのものを研究するのも違うなあ』と。つまり、量子力学を思いっきり使って、何かものづくりができないかなと考えているときに、量子コンピューターと出会いました。

 今僕らが使っているコンピューターは足し算、引き算など、学校で習った計算の原理をそのまま使ってちょっと複雑なことをやっているだけですが、そのコンピューターの計算原理を根底から量子力学に置き換えましょう、という考えを持つ量子コンピューターを知って、『(コンピューターを作るという、ものづくり要素もあるので)これは自分の興味にピタッと一致してる!』と思って量子コンピューターを研究することにしました。

 しかし、当時は量子コンピューターの研究室がそんなになかったので、理論物理の研究室に入って独学で始めました。その後、京大工学部の大学院に進学し、量子コンピューターの研究で博士号を取ったのが2011年。当時はやっと研究分野の1つとして認められたかな、くらいの立ち位置でした。

 なにせ僕が研究を始めた大学4年生の頃(2005年)の量子コンピューターは、SF扱いされるような分野でした。大学のアカデミックポジションはほとんどない状態。これはヤバいなと思って就活もしていたのですが、これで量子とお別れかと思うとちょっと悲しくなって……。特に行き先は決まっていませんでしたが、就活はやめました。

大阪大学 大学院基礎工学科 藤井啓祐教授。主な著書に『驚異の量子コンピュータ』『観測に基づく量子計算』など

―― それは、ずいぶん大胆ですね。

藤井 そこで偶然、当時大阪大学にいらっしゃった量子情報分野の国内第一人者である井元先生のところに研究員のポジションがあったので、2年間大阪大学で研究を続けることができました。そのときに結構良い仕事ができて、それが京都大学の白眉プロジェクト――前・京大総長(現・理化学研究所理事長)が始めたもので、世界中から分野を問わず20人集めて自由に研究をさせる――の採択につながり、京大に戻りました。その後は東大と京大に1年半ずつ在籍し、2019年に教授として阪大へ……というかたちです。

―― 教授1年目はいかがでしたか?

藤井 それが昨年は、研究室の壁の塗り替えやカーペットの張り替えを業者さんにお願いしたり、学生部屋の確保や机や椅子などを手配したりと、教授というよりも新規事業の立ち上げとでも言うべき仕事内容でした(笑)

 最近の大学には、ゼロから研究室を立ち上げる際の資金がない場合も多いです。それどころか1年目は所属学生がいないので、学生一人あたりに配分される予算も入ってこない。にもかかわらず、僕の場合は京大から連れてきた学生がいたので、「学生分の予算は下りないけれど、学生は所属している」という状態で、しまいには座る椅子にも事欠く始末……。プロジェクトの研究費は、机や椅子など本来大学が備えるべきものは買えないことが多いです。そこで研究科に前借りをして、なんとか机や椅子を揃えました。まあ、翌年になれば学生がいっぱい来ることはわかっていましたからね。

 ほんと、昨年はバタバタでした。大学にはこの手のサポートをしてくれる人材がいないので、大学教員が自分でやらないといけないのです。日本の研究力が下がっている原因の1つかもしれません。

―― 量子コンピューターの最先端を走っている先生が内装の打ち合わせで時間を取られてしまうのですか……。失礼ですが、秘書さんはいらっしゃらないのですか?

藤井 秘書さんは、部屋の工事が終わり、机と椅子を確保してから雇用しました。

―― もしかして、海外は事情が違うのですか?

藤井 はい。役割分担が進んでいまして、それこそ研究のプロポーザルを書く専門の人までいるという話です。

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