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自粛・マスク警察の根底にある「他人の自由を許さない団結力」の歴史

2020年08月12日 06時00分更新

文● 河合 敦(ダイヤモンド・オンライン

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自粛警察、マスク警察に代表されるように日本人の同調圧力は半端ではない(写真はイメージです) Photo:PIXTA

いまだ終息の見通しもたたない新型コロナ禍は、世界規模で多くの人を不安や苦境に陥れ、経済を破綻させつつある。しかし、人類はこれまで、感染症のパンデミックを何度も経験している。そのたびに先人たちは大きな犠牲を払いながら乗り越えてきた。歴史は常に繰り返している。過去をひもとけば対応策も見つかるのではないだろうか。前回に続き今回も、わかりやすい解説で定評のある歴史研究家・河合敦氏の新刊『繰り返す日本史』(青春出版社)から、昔から日本人が重んじている「団結力」「合議制」の歴史について解説していく。

団結を重んじる一方、他人の自由を許さない日本人

 2019年の流行語大賞は「ONE TEAM(ワンチーム)」だった。アジア初開催のラグビー・ワールドカップ日本大会―そこで日本代表チームが掲げたスローガンだ。ヘッドコーチのジェイミー・ジョセフ氏が考案した言葉だというが、日本代表はまさに「ONE TEAM」になって見事、史上初のベスト8を勝ち取った。その間、多くの感動を私たちに与え、国内におけるラグビーの地位を不動のものにした。

 日本人は今も「皆で力を合わせてがんばろう、団結して一つになり目標を達成しよう」という傾向が、他の国よりかなり強い気がする。そのためには、個人の犠牲や自由の制限もある程度やむをえないと考える人も多いのではないだろうか。

 ラグビー日本代表の活躍と国民の熱狂ぶりを目にしながら、「ONE TEAM」という精神は、日本人の中に根付いた行動原理の一つだと改めて確認することができた。ただ、考えてみるとこの原理はプラスに働くこともあれば、マイナスに働くこともある。

 最近でいえば、プラスに働いたのがまさにラグビー日本代表の活躍であり、マイナスに働いたのがコロナ禍での自粛警察やマスク警察ではないかと考えている。その同調圧力が半端でないことは、多くの読者も実感しているはずだ。

 じつは、戦前も同じようなことがあった。軍国主義に突き進んだ挙国一致政策だ。「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」という言葉は有名だが、これは、戦時中に戦意高揚のために新聞各社と大政翼賛会が主催して国民から公募した「国民決意の標語」だ。

 そして、ほとんどの国民は、この標語を遵守し、つましい勤倹生活をまじめに送ったが、一方でそれを守らない人々を「皆ががんばっているのに、なぜ勝手な行動をするのか」と激しく攻撃した。中には「町会決議により、パーマネントの方は当町の通行をご遠慮下さい」と立て看板を掲げた町も出てくる始末だった。

 今回は、団結を重んじる一方、他人の自由を許さない日本人の行動原理を歴史的に考察していこうと思う。

いつの時代も「合議制」を貫いてきた日本の政治体制

 聖徳太子(厩戸王)が定めたとされる憲法十七条(六〇四年)は、「和(やわらぎ)を以て貴しとなし、忤(さか)ふること無きを宗(むね)と為よ(和を尊び、人に逆らわないようにしなさい)」という条文があまりに有名なものだから、「和」というものの大切さを人々に説いたのだというイメージが定着してしまっている。しかし、それは間違いだ。

 憲法十七条は、大和政権の豪族たちに出された通達であり、中国の隋のように天皇(皇帝)のもとに権力を集めて支配を秩序づけ、豪族たちに国家の官僚としての自覚を求めたものである。また、憲法十七条には「それ事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし(物事は独断で決めるな。必ず皆と議論して決めなさい)」という一文があるが、これも、特定の豪族による専横を諫めたものだ。

 とはいえ、「和」の精神を重んじ「衆と論ふ」という文言は、まさに日本人の特性を指摘しているようで、だからこそ、こうした勘違いも起こるのだろう。強い自己主張をせず、協調的に物事を進めていく日本人―それは歴代の政治を見ても、明らかである。昔から日本の為政者たちは、衆議を重んじつつ政治を運営するのが常態だったのである。

 奈良時代前後に成立した大宝律令や養老律令によって、朝廷の政治制度はしっかりと定まった。中央の政治組織を太政官といい、太政大臣、左大臣、右大臣、大納言といった構成員の公卿たちが、合議によって政策を決め、決定事項は天皇の裁可を得て、天皇の命令(意志)として詔や勅という文書形式で発布された。公卿の決めたことに天皇が異を唱えることはなかった。衆議を重んじたのである。

「摂政や関白が独裁していた」という誤解

 合議という政治手法は、平安時代に藤原氏(北家)が権力を握った摂関政治も同様だった。すべてを摂政や関白が独裁していたという印象が強いが、それはまったく正しくない。摂政・関白(外戚)は、官人(官僚)の任免権を有したので力があったのであり、専政を行なったわけではない。おもな政策は太政官の公卿会議で審議されて決まった。

 とくに重要問題に関しては、陣定(じんのさだめ)(内裏の左近衛府の陣が置かれた陣という場所で開催される公卿会議)が開かれ、各公卿たちの意見が求められた。最終的に天皇や摂関が決断を下したが、だいたいにおいて多数派の意見が尊重された。

 では、初めての武家政権である鎌倉幕府はどうだったのだろうか。こちらも二代将軍源頼家以降は、将軍は幕府のお飾り的存在になり、実質的には執権北条氏がリーダーシップを取りつつも、有力御家人から構成される評定衆の合議というかたちで政治が運営された。

 とくに三代執権北条泰時は、御成敗式目に基づき、評定衆の意見を尊重した衆議政治を進めた。これを執権政治と呼ぶ。しかしやがて北条氏が独裁色を強めていく。そうなると御家人たちの気持ちが離れ、鎌倉幕府は瓦解していくことになったのである。

 江戸幕府の支配機構(職制)がしっかり整備されたのは、三代将軍家光の時代である。重職は譜代と旗本で占められ、外様や親藩(徳川一族)は政治に参加させなかった。将軍のもとで政務にあたるのが、二万五千石以上の譜代から任命された老中だ。定員はおおむね三~五名。ただ、政務は月番制(一カ月交替制)だった。これは老中だけでなく、重要な役職はみな同様。しかも大事な要件は、話し合って決めていた。

 こうした合議制の採用は、独裁を防ぐためであった。これまで見てきたように、日本の政治は古代から衆議によって決定してきたのである。もちろん、独裁が行なわれた時期も存在するが、それはいずれも長続きしなかった。

日本では「独裁政治」は長続きしない

 内閣総理大臣は九十七代を数えるが、一年間も首相の座にいなかった人がおよそ三分の一を占める。ここまで為政者がコロコロと変わる国は少ないと思う。

 これは内閣制度に限らない。歴史をさかのぼっても同じ事が言えるのだ。政権交代の頻繁さは、ある意味、日本特有のものではないかとさえ思えてくる。とくに強権を発動して慣例を大きく変えようとする為政者に対しては、必ずといってよいほど反乱が起こったり、当人が死去してすぐ政変が勃発している。

 たとえば、織田信長は、明智光秀に殺害された理由は不明だが、荒木村重、松永久秀、浅井長政、武田信玄など、これまで多くの家臣や大名に背かれている。彼の強引で人間を理解しようとしない性格が災いしてのことだと思われる。

 幕府の老中・水野忠邦は、将軍家斉の文化・文政期に弛緩した政治状況を正そうと、天保の改革を断行した。その理念は見上げたものだったが、あまりに性急で厳しかったこともあり、わずか二年で大名や旗本に反発を受けて失脚してしまった。

 太平洋戦争を勃発させた東条英機も、戦時中に失脚している。日本が連戦連勝している間は国民は熱狂的に東条を支持したが、戦況が悪化すると東条内閣を憎悪するようになり、失脚してしまったのである。

 このように日本史上、大きな権限を握った為政者たちは、短期間のうちに自滅していった。他国のように数十年続く専制政治は皆無といってよい。とくに多数に犠牲を強いることが明らかになると、とたんに人々は為政者に噛みつき、寄って集ってその座から引きずり下ろそうとした。

 民を虐げる独裁には屈しない。それがどうやら、昔から受け継がれている日本人の特徴らしいのである。

※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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