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「厚底シューズは禁止されない」といえる2つの理由

2020年01月18日 06時00分更新

文● 小林信也(ダイヤモンド・オンライン

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厚底シューズ
昨年9月のマラソングランドチャンピオンシップでは、多くの選手がナイキの厚底ランニングシューズ「ズームX ヴェイパーフライネクスト%(ZOOMX VAPORFLY NEXT%)」を着用し出場した Photo:JIJI

「厚底シューズを世界陸連が禁止する!?」

 日本のネットニュースで、このような報道が流れた。15日にイギリスの新聞「テレグラフ」「タイムズ」「デイリーメール」など各紙が「ナイキ社の厚底シューズが国際陸連によって禁止となる可能性が高い」と一斉に報じたことを受けての記事だった。デイリースポーツは、「国際陸連は昨秋から調査チームを立ち上げており、『デイリーメール』によると今月末にも調査結果が発表されるという」とも伝えている。

 日本国内では、「あれだけ記録が短縮されるのだから規制もやむなし」と感じている空気が強いように思う。平たく言えば「ずるい」という感覚もあるのだろう。だから、「禁止か?」と報道されて、「まさか」より「やっぱり」という受け止め方をした人が大勢のように思う。

 また今回の報道でも不思議に思うのは、「イギリスの新聞3紙などが伝えた」だけで、「ほとんど事実」であるかのように受け止めていること。これら新聞報道の根拠をまったく確認せず禁止を想定するのはおかしいだろう。

1足3万円で、足の保護も目的
「レーザーレーサー」とは異なる事情

 私はおそらく「禁止されないだろう」と推測している。理由としては大きく2つあるが、まず、禁止されるだけの理由が不十分だ。禁止を求める声としては、「バネの役割を果たすカーボンプレートがスピードを生んでいるなら、人間の力で走っているとはいえない」というものがある。

 今回の厚底シューズと似た例として、競泳の水着『レーザーレーサー』が挙げられる。北京五輪では多くの選手が着用し、世界記録が23個も誕生したことを記憶している人も多いだろう。超高速レースになった要因はレーザーレーサーだといわれ、大会後に禁止された。

 レーザーレーサーは全身を包み、選手の体型を変えるほど密着感が高く、ひとりでは容易に着られない。しかも1着約7万円もする。「一部ウレタンを含む素材によって浮力が生じることが証明された」のも禁止の決め手だったとされている。そのため、その後、水着の素材は「布地」に限られた。

 一方でナイキの厚底シューズは、約3万円。市販されているから誰でも買おうと思えば入手可能だ。着脱も容易。そして、足の保護を1つの目的にしているのが特徴でもある。スポーツは、科学技術の発展とともにあり、用具や器具の改良によってスポーツのパフォーマンスも飛躍的に向上してきた。この流れを陸上界は拒絶できるのだろうか?

 すごく素朴に問いかけよう。トラックレースの選手たち、とりわけ短距離のスプリンターたちは、針のようなピンのついたスパイクを愛用してきた。最近になって、ピンのないシューズが開発され話題になったが、スプリンターがスパイクを着用するのは誰もが知っている。

 このピンは何のためだろう? 少しでも速く走る、走りやすくするためではないのか? そのために、あんな危ない、一見してシューズとしては不自然な形状のピンを付けることを許してきた陸上界が、カーボンプレートを内蔵する厚底シューズを禁止できるだろうか?

 かつて棒高跳びのポールは竹だった。これがグラスファイバーに代わり、記録が伸びるとともに安全性も高まり、技術も革新した。これによって棒高跳びがより面白くなったともいえるだろう。厚底シューズを禁止するなら、棒高跳びも竹に戻さなくてはならない。

 断っておくが、不公平でも不当でも、記録が出るシューズを容認すべきだと論じているのではない。このシューズの規制には、もう1つの側面がある。

 日本では長く「薄底」のシューズこそが王道だという伝統があるために、厚底への抵抗感が他国に比べても強いように感じる。それは、金栗四三以来の伝統も影響しているだろう。日本の長距離走者の多くはかかとから着地し、足全体を地面につけて爪先で蹴って前に進む。その走法には薄底シューズが適している。

 また日本の往年の名選手や指導者たちの間には、「シューズは足を保護するために履くのであって、スピードを増すための道具ではない」という観念もある。それが厚底シューズへの抵抗にもなっているが、厚底シューズもそもそもスピードアップだけが主眼ではない。かかとを着かず、爪先側で着地して走るスタイルのアフリカの選手たちの足を守るためという目的もある。禁止はアフリカ選手への不利益をもたらす可能性がある。

 禁止報道で疑うべきは、ライバルメーカーからのメディアへの働きかけだ。ナイキ一社が勝ち組になっている長距離シューズの争いは、他社にとって面白いわけがない。忖度か重圧かはわからないが、ナイキへの牽制と禁止を報じることで少しでも一強ムードに一石を投じる狙いがあるかもしれない。

 イギリスの新聞は、感情的な動機で記事を書き、読者を煽る手法でも知られる。あくまで推測だが、禁止報道は厚底シューズの人気を苦々しく思っている読者の歓心を買うことができる。

世界陸連が禁止すれば
非公式レースの方が「速く」「盛況」に

 もう1つ、「禁止されない」と推測する大きな理由は、マラソンと世界陸連の微妙な関係だ。世界陸連は、世界の陸上界を支配・管理している形になっており、世界陸上の莫大な協賛金や放映権料は世界陸連に入る。いわば総元締めだ。

 しかし、マラソンはどうだろう? 現在、世界中で市民マラソンが開催されている。とくに有名なのは、ボストン、ベルリン、ロンドン、東京、ニューヨーク、シカゴなどのシティマラソンだ。東京でも約3万人、多いレースは約4万人が参加する。これら市民ランナーの多くは、陸連に登録などしていない。陸連の公認記録なども求めない。そのレースを完走したこと、大会が認めてくれる記録だけで十分だ。つまり、陸連の管理や支配の及ばないところで、大半のマラソンランナーは活動しているのだ。

 仮に世界陸連が厚底シューズを禁止しても、オリンピックや世界陸上を目指すエリートランナーだけがその対象となり、メーカーさえ敢然と製造し続けてくれたら、市民ランナーたちは喜んで使い続けるだろう。

 しかも、そうなった未来を想像すると、世界陸連にとってはおそらく歓迎すべきでない事態が待っている。厚底シューズが許される非公認レースと、禁止された公認レースに二分される可能性があるのだ。しかも、非公認レースの参加者は常に3万人、4万人と大盛況で、公認レースはせいぜい100人規模。しかも、公認レースの記録より、非公認レースの記録の方が遥かに速く、刺激的になる。

 キプチョゲは、もし厚底シューズが五輪前に禁止されたら、東京五輪への出場は回避するのではないか。そして、世界陸連とは無関係に開催される「厚底OK」のシティマラソンでの快走を目指すだろう。プロとしてはそれで十分に活躍できる。むしろ、ファンはそれを求めるだろう。

 厚底シューズの恩恵を得ているのは、ナイキだけではない。日本ではあまり知られていないが、昨年10月、エリウド・キプチョゲ(ケニア)が人類で始めて「マラソン2時間切り」を果たした挑戦をサポートしたのは、イネオスというイギリスの複合化学メーカーだ。

 1998年に創業以来、企業買収や合併などを繰り返し急成長した。いまや化学メーカーの世界トップ10に入る巨大企業だ。イネオスは近年、サッカー、自転車、セーリングなどスポーツ支援に力を入れている。ツールドフランスを4連覇していたチーム・スカイに代わってイネオスがオーナーになり、昨年のツールドフランスでも優勝した。このイネオスが、キプチョゲの挑戦を支援していたのだ。あのレースの名称は、『イネオス1:59チャレンジ』だった。

 それこそイネオスなどスポンサー企業が、世界陸連を離脱したマラソン組織を支援・協賛する可能性も大いにあるだろう。

『イネオス1:59チャレンジ』も、世界陸連の公認ではない。1時間59分40秒の記録も世界陸連に公認されない。それでも、「そんなの関係ねえ」とばかり、「人類史上初めて2時間を切った」事実と軽快な走りは世界に衝撃と興奮を与えた。これを成し遂げたキプチョゲに対する敬意と賛辞が世界のメディアで発信された。

マラソン人気は日本とアフリカだけ?
禁止で五輪種目から外れる可能性も

 ある陸連関係者から、「マラソンは五輪種目から外れる可能性がある」と聞かされたのはつい最近のことだ。札幌のコース決定においても組織委員会と揉めたが、これはIOC(国際オリンピック委員会)のマラソンに対する考え方と日本の組織委員会の思い入れの違いも背景にあった。

 全競技でダウンサイジング化を図るIOCにとって、42.195キロもの長距離を前提とするマラソンは、なかなか厄介な種目なのかもしれない。例えば6キロ7周の周回コースなら、コース設営も警備もずいぶん楽になる。しかも「マラソン中継をずっとテレビにかじりついて見るのは日本人くらい」といわれるように、マラソンは見るスポーツとして世界的に人気が高いわけではない。

 さらに、マラソン世界ランキングを見れば驚愕する。いまや男子の世界ランキングの100位以内は、ほとんどケニアやエチオピアの選手ばかりで占められている。日本新記録で1億円獲得した大迫傑の2時間5分50秒は、世界ランキングでは97位。ぎりぎり100位以内に入っているレベルだ。

 詳しく書けば、上位100位までの50人がケニア選手、40人がエチオピア選手の記録だ。他は辛うじてモロッコ3人、トルコ、バーレーン、イギリス、ウガンダ、アメリカノルウェー、日本が1人ずつ。上位60位までの記録の58までがケニアとエチオピアで占められている。こんな競技が他にあるだろうか?

 野球が、世界的な普及が十分でないとの理由で、東京大会を最後に種目から外れると決まっている。マラソンはそれ以上の偏りなのだ。このデータを見れば、マラソンが五輪種目から外れることは何ら不思議ではない。

 話を聞いたその陸連関係者によれば、古代オリンピアの史実に基づく種目だけにマラソンは継続するかもしれないが、代わりに1万メートルが姿を消す可能性が指摘されているという。
 
 そのような状況の中で、もし「厚底シューズを禁止する」決定がなされたならば、それは世界陸連がマラソンとの決別を自ら選択し、宣言するのと同じだろう。そこまで重大な変化を覚悟して厚底禁止に踏み切るとは思えない。もし禁止したら、オリンピックを含めた世界陸連公認大会からマラソンが離脱することを意味するのだから。

(作家・スポーツライター 小林信也)


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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