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批判相次ぐ「五輪マラソン札幌移転」にあえて賛成する理由

2019年10月22日 06時00分更新

文● 小林信也(ダイヤモンド・オンライン

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五輪,マラソン
世界陸上ドーハ大会では、女子マラソンで猛暑のために棄権者が続出した Photo:EPA=JIJI

「東京五輪のマラソンと競歩を札幌開催に変更する」

 突然のニュースが日本中に衝撃を与えた。

 IOC(国際オリンピック委員会)トーマス・バッハ会長の『強権発動』を非難する声もある。確かに、既定の方針をこの時期に変更するのは通常なら許されない暴挙だろう。だが、その決断を下したのは、それほどに日本の猛暑が「看過できないもの」という認識に至ったからではないか。

暑さ指数31度以上「運動は原則禁止」
8月2日の東京はそれを超える

 気温30度を越える東京の猛暑の中でマラソンを走るのは、常軌を逸している。

 近年、スポーツと暑さに関して目安になっている「暑さ指数=WBGT(湿球黒球温度)」を手がかりにすれば明快だ。数字は気温とは異なり、「人体と外気との熱のやりとり(熱収支)に着目した指標で、人体の熱収支に与える影響の大きい (1)湿度、(2) 日射・輻射(ふくしゃ)など周辺の熱環境、 (3)気温の3つを取り入れた指標だ。単位は気温と同じ摂氏度(℃)で示されるが、値は気温とは異なる。

(公財)日本スポーツ協会「スポーツ活動中の熱中症予防ガイドブック」(2019)によれば、暑さ指数31度以上は、『運動は原則禁止』とあり、「特別の場合以外は運動を中止する」とある。

 その下の28度から31度は『厳重警戒(激しい運動は中止)』で、「熱中症の危険性が高いので、激しい運動や持久走など体温が上昇しやすい運動は避ける。10~20分おきに休憩をとり水分・塩分の補給を行う」との指針が示されている。

 女子マラソンが予定されている8月2日に関して今年のデータを見ると、レースが終盤を迎える午前8時、東京のWBGTは31.0度。男子マラソンの行われる8月9日午前8時は30.9度。スタート予定時刻の午前6時でも、それぞれ2日は28.5度、9日は27.7度となっている。

 つまり、レースは『厳重警戒(激しい運動は中止)』の状態からスタートし、『運動は原則禁止』すべき領域に突入して佳境を迎える。

 オリンピックはスポーツを通じた平和の祭典である。その祭典が、なぜ、猛暑に生贄を捧げるような形で行われる必要があるのか? 冷静に考えたら、答えは明らかではないだろうか。

「オリンピックがスポーツの最高峰イベント」という評価には異論がある。しかし、現実的にオリンピックの影響力は否定できない。オリンピックが猛暑下でのマラソンを容認するなら、それは世界のマラソンに大きな影響を与える。すでにそうなっている。トップレベルの競技者だけでなく、マラソンやジョギングを愛好する中高年、そして少年少女をも間違った認識に巻き込んでしまう。

「マラソンは、真夏の暑い中でするものだ」「暑さに強くなければ、マラソンの王者にはなれない」

 こうした歓迎すべきでない悪しき常識が流布し、事故を誘発する懸念は大きい。オリンピックは、スポーツの正しい指針を示すべきだ。世界中の人々に対して、「長距離走は涼しい気候の下で行う、暑さには十分な注意が必要だ」とのメッセージを発信すべきで、間違ってもその逆であってはならない。

 かつて、マラソンを冬季五輪でやったらどうか、という提言もあったように聞く。

 冬季五輪の開催都市は「雪と氷の舞台」だから、マラソンとはイメージが結びつかない。が、季節的な観点でいえば、なかなか名案のように思う。冬季五輪と同じ時期に、少し離れた、マラソンのできる地域で開催するのは検討に値する。そもそも、マラソンの盛んな時期は冬季だし、選手たちの年間スケジュールにも合致する。

直前の変更をIOCは反省すべきだが
選手の生命のために賢明な判断だ

 それにしても、「この時期になって」との批判はもちろん正論だ。本当はもっと早く、できれば東京開催が決まった時点で「マラソンは涼しい場所で」と注文がついて然るべきだった。それはIOCの反省点であり、同時に東京都および組織委員会、そして我々メディアの認識の甘さ、行動力のなさを恥じるところでもある。

 ただそれほどに、スポーツ界に「根性論」「忍耐賛美」が深く根付いている。

 私がいまこうして、IOCには日頃から批判的な思いを抱いていながら、今回の決断には全面的な賛意を感じ、読者に提言しているのは、スポーツ人にありがちな思い込みを本当に捨てるべきだという危機感に目覚めたからだ。

 IOCが「選手ファースト」を選択し、選手の競技環境と健康を守るために札幌移転を決断したのか? それとも、万一、大勢の犠牲を出すような事故が起こった場合のオリンピックへのダメージを懸念して決断したのか? それはわからない。それについては、また別の機会に検証したいと思う。

 いずれにしても、スポーツを救う、スポーツを愛するすべての人に健全な未来を保証するのはIOCだけでなく、スポーツに関わるすべての人間たちの使命だ。日本スポーツ協会が、自ら薦める暑さ対策と完全に矛盾する東京でのマラソン実施を容認していた姿勢も、この機会に改善が必要だろう。

 私は昨春まで10年間、少年野球、中学野球の監督を務めた。暑さに倒れる少年が多いことに当初は驚きと落胆を感じた。「最近の子どもたちは弱すぎる、甘すぎる」と感じた。ところが、次第に自分が少年だったころとは暑さの質が違う、身体へのダメージが違うことに気がついた。そして、指導者の立場で、偉そうに上から目線で叱る自分の不見識こそ危険だと感じるようになった。

 そして、ある合宿の日。40度近い猛暑の中で3試合戦った夜、ひとりの少年が不調を訴えた。熱中症だった。すぐに救急診療を受けたあと、両親に連絡し、自宅に戻った。それで安心かと思ったが、それから一週間、「快復」の連絡がなかった。来る日も来る日も、「まだ本調子ではない」との報告を受けるたびに胸を締め付けられ、息苦しさに襲われた。猛暑を甘く見てはいけない。そして、猛暑とスポーツのために、命を落とすことがあってはならない。

 今回の札幌移転。確かに遅すぎる「直前の決定」で混乱や困難は否定できない。それでも、選手、観衆、スタッフの生命の安全のため、万全を期すのは賢明な選択だ。

(作家・スポーツライター 小林信也)


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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