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北方領土「日本人が知らない」真実、占領の黒幕・返還交渉の矛盾…

文● 粟野仁雄(ダイヤモンド・オンライン

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北方領土「日本人が知らない」真実、占領の黒幕・返還交渉の矛盾…
日本人が返還を切望する北方領土のことをきちんと知っている人は、実際のところどれくらいいるのか。写真は野付半島から見た国後島 Photo by Masao Awano

ロシアにとっては「南方領土」
北方領土と日本の複雑すぎる関係

「今、日本でニュースになっているクリル列島(千島列島)の問題をどう思いますか。日本じゃ北方領土と呼ぶのだけれど……」

 1月末、モスクワでの首脳会談に合わせて旧島民たちの取材に訪れた筆者は、北海道根室市のラーメン店で、隣に座った若いロシア人男性に拙いロシア語でこう尋ねた。サハリンから商売に来ていた体格のよい男は、「北方領土ではないよ。あの島は絶対に我国の『南方領土』なんだ。でも日本はいい国だよ。仲良くしたいね」と笑った。

 安倍首相とプーチン大統領による日ロ首脳会談の度に取り沙汰される北方領土問題だが、3月15日、ロシアの『コメルサント』紙が「大きく交渉スピードが後退した」とプーチン大統領が発言していたことを報じた。足もとでは、5月上旬の対ロ協議を前に、河野太郎外相が国会答弁においてロシア側を刺激しない配慮を見せるなど、交渉の「難しさ」が伝わってくる。

 近づいたとか思うと離れるブーメランのような「北方領土」とは、日本人にとってどんな存在なのか。筆者が若き記者時代から関わったこのテーマについて、まずは地理や歴史などの基本事項を解説したい。

納沙布岬の灯台
納沙布岬の灯台 Photo by M.A.

 背の低い白い灯台が立つ根室半島先端の納沙布岬。眼下の岩礁にはかつて作家の三島由紀夫を信奉する国粋主義団体「楯の会」がペンキで描いた「千島を返せ」の文字があったが、積年の波で消えている。沖へ視線をやると、水平線上にまっ平で樹木の1本もない不思議な水晶島が見える。貝殻島の「日本時代」からの古い灯台が見える。右には勇留(ゆり)島。いずれもロシアの実効支配下にある歯舞群島の1つだ。

「うわあ、ロシアが見えるなんて」-――。若いカップルが驚いていたが、寒がって車に引っ込んでしまった。夏のシーズンは濃霧で見にくいため寒い時期がいいのだが、この地域の冬の寒さは半端ではない。見えていた数隻の漁船は、あまりの近さに日本の船かと思いたくなるが、潜水でウニを採るロシアの船である。ここから日露の海上の「中間ライン」(固有の領土、領海を主張してきた国は国境とは言えない)はわずか1.7キロだ。

「ロシア人はウニなんて食べないから、みんな日本に売るんです。この寒いのによく潜るよ」とは食堂兼土産物店「請望苑」を経営する竹村秀夫さんだ。訪問者たちの「北方領土って、こんなに近かったんですか」の言葉に地元民は辟易しているが、北海道旅行も根室まで行く人は少ないから、それも仕方がない。

 北方領土は、北から択捉島、国後島、並列する歯舞諸島と色丹島の「4島」だが、沖縄本島より大きい最大の択捉島と2番目に大きい国後島が、全面積の93%を占める。国後島は根室市からも見えるが、標津町からはより近く、好天なら主峰の爺々岳も見える。

 北方領土をめぐる国際的な取り決めの柱は、(1)1855年の日露通交(和親)条約、(2)1875年の千島樺太交換条約、(3)1904年のポーツマス条約、(4)1951年のサンフランシスコ講和条約、そして(5)1956年の日ソ共同宣言だろう。日ロ間における北方領土を巡るターニングポイントについて、おさらいしてみよう。

開国時にロシアだけは
友好な態度だった

納沙布岬から見た水晶島と貝殻島の灯台
納沙布岬から見た水晶島と貝殻島の灯台 Photo by M.A.

 1855年2月7日、江戸幕府はロシア帝国と「日露通好条約」を結ぶ。「日露和親条約」ともいう。ロシア語では「貿易と国境の条約」だが、日本語では「貿易」も「国境」も消え、和親だとか通好とか、わけのわからぬ言葉になる。

 このとき、ニコライ一世の訓令・プチャーチン提督と対峙したのが、幕府の川路聖謨(かわじ・としあきら)という旗本。NHKの元モスクワ支局長の石川一洋解説委員は、2月に鳥取県倉吉市に招かれた講演会で、川路について「優れた人でしたが、ロシアの交渉団が彼の写真を撮ろうとしたら固辞した。『私のような醜男が貴国に紹介されては日本の恥です』と言ったのです」と素朴な人柄を紹介した。川路は戊辰戦争で幕府軍に殉じて自決した。

 この時期、米国のペリー提督が軍艦を連ねて開国を迫るなど、欧米列強が「鎖国日本」を力でこじ開けようとしたが、石川氏は「ロシアだけは非常に友好的な態度で日本に接してきたのです」と強調した。確かにその通りだ。

 この条約で国境線が得撫(ウルップ)島と択捉島の間とされ、樺太は「日露混住の地」となるが、20年後の1875年、ペテルブルグ(今のサンクトぺテルブルグ)で締結された「千島樺太交換条約」で、樺太は全島がロシア領、千島列島すべてが日本領となる。日本は大政奉還から7年目の明治8年、ロシア側は革命で銃殺されるロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の父、アレクサンドル三世の時代だ。

 20世紀初頭、日露戦争で日本が勝利し、1905年に「ポーツマス条約」で樺太の南半分が日本領となる。これはロシア人にとって大変な屈辱だった。南樺太のロシア人は北緯50度以北へ追いやられ、代わりに日本の開拓団が多数樺太へ移住し、石炭生産、製紙産業、林業、農業、漁業などを繁栄させた。樺太や千島の日本人は、第二次大戦末期に日本本土の人たちが空襲などに苦しんでいた頃も平和を謳歌した。

 それが破られたのが、ポツダム宣言受諾後の1945年8月。日ソ中立条約を一方的に破ったソ連軍が、満州、樺太、北方領土へ侵攻したのだ。戦闘らしい戦闘もなかった北方領土では、樺太や満州のような悲劇は少ないが、金品を奪うソ連軍との諍いや、本土への脱走時に船が銃撃を受けるなどして、幾人かが命を落とした。

 その後、色丹島などでは2年間ほど日露混住の時代もあった。色丹島の混住時代に小学生時代を過ごした得能宏さん(85)は、「先生は怖がっていたけれど、ロシア兵が黒板のほうに来て、生徒の算数の間違いを直してくれた」と振り返る。

 最終的に4島から日本人すべてが追われた。根室や羅臼などに裸一貫で引き揚げた彼らの戦後の苦労は想像に難くない。

意外に知られていない
サンフランシスコ平和会議での失態

根室市厚床にある大型看板
根室市厚床にある大型看板 Photo by M.A.

 ソ連の対日参戦は1945年2月の米、英、ソのヤルタ会談で密かに決められた。戦争を早期終結させ、米兵の犠牲を減らしたいルーズベルト・米国大統領の求めによるものだが、スターリン・ソ連書記長の談話録には「問題が起きているわけではない日本と戦争することに国民は納得しない」と、代償に領土拡大を求める巧みな会話が残されている。

 後にスターリンは、釧路と留萌を結ぶライン以北の北海道の北半分までも要求したが、米国が拒否した。実現していたら北海道は今頃、どうなっていたのだろうか。

 1951年、米国との単独講和だったサンフランシスコ平和条約で、日本は「クリルアイランズ(千島列島)」を放棄した。実はこのときに、現在に至るまで禍根を残す失態が生じる。批准国会で野党議員に「放棄した千島に国後や択捉を含むのか」と訊かれた西村熊雄条約局長が、「含む」と答えてしまったのだ。

 外務省はこの大失敗に触れられることを今も嫌がるが、和田春樹・東大名誉教授(ロシア史)は「どんなにつらくとも、放棄したことを認めて交渉すべきだ」と話す。外務省は、「サ条約にはソ連が参加していないから、ロシアのものとされたわけではない」としている。

 1956年、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相との間で「日ソ共同宣言」が締結された。今、盛んにニュースになっている史実だ。「平和条約締結後に、色丹島と歯舞諸島は日本に引き渡すとされた」が、「引き渡す」(ロシア語では「ペレダーチ」)とは、「返す」ではなく、「私の物ですが差し上げます」というニュアンスだった。

 結局、平和条約を結べないまま、世界は冷戦時代に突入。日本を自由主義陣営に引き込みたい米国のダレス国務長官が、「歯舞・色丹の返還を目指してソ連と平和条約を結ぶなら、沖縄を永久に占領する」とした有名な「恫喝」が大きな楔だった。

 そして、1960年の日米安保条約延長でソ連は態度を硬化し、「領土問題は解決済み」とされる。1973年、田中角栄首相がブレジネフ書記長に「両国間の未解決諸問題」に領土問題が含まれることを認めさせたが、その後進展はなかった。80年代にゴルバチョフ政権が誕生し、91年にソ連が崩壊、続くエリツィン政権ではロシアが一旦態度を軟化させたものの、日本は何度も好機を逃してきた(これについては、後述する)。

 日本人の最も身近にある国際問題の1つ、北方領土問題はこうした経緯を辿って来たのである。

忘れられがちな史実
本当の先住民は誰だったのか

 2月7日、筆者は大阪は中の島公会堂の「北方領土返還要求大会」に出かけた。入り口で「アイヌ民族抜きで交渉を進めることはおかしい」と抗議の横断幕を掲げる人たちがいた。

 北方領土史で忘れられがちなのは、「本当の先住民は誰だったのか」だ。筆者は1980年代、北海道で知り合いのソ連担当の公安関係者から、「ソ連の学者たちが北海道のアイヌ民族の存在を口実に、北方領土が古来、自分たちの領土だったことにしようとしている」と聞いた経験がある。アイヌはロシア側にも居ることをテコに、「日本人より先にロシアのアイヌが千島にいた」として、日本が主張する「固有の領土」を否定しようとし、「AS協会」という組織を立ち上げたと、といった話だった。

 詳細は省くが、国境という観念も希薄だったその昔、千島列島ではアリュート、樺太アイヌ、北海道アイヌら、様々な民族が狩猟生活や物々交換などをしていた。政府は、第二次大戦までは一度も外国の手に渡っていない「固有の領土」と強調している。 

ソ連の北方領土占領に米国が協力
なぜか後追いされない衝撃の事実

 2017年12月30日の北海道新聞に「歴史の常識を覆す」報道があった。タイトルは「ソ連の北方四島占領、米が援助、極秘に艦船貸与、訓練も」というものだ。

 概要は、1945年8、9月に行われた旧ソ連軍の北方4島占領作戦に、米国が艦船10隻を貸与していたというものだ。大量の艦船の提供だけではなく、ソ連兵の訓練も行ったといい、4島占領の背景に米国の強力な軍事援助があったことを示唆する内容だった。

 ヤルタ会談の直後、連合国だった米ソは「プロジェクト・フラ」という極秘作戦を実施した。米国は45年5月から掃海艇55隻、上陸用舟艇30隻、護衛艦28隻など計145隻の艦船をソ連に無償貸与。ソ連兵1万2000人を米アラスカ州の基地に集め、1500人の米軍人が艦船やレーダーの習熟訓練を行った。

 8月28日からソ連兵が攻め込んだ択捉、国後、色丹、歯舞の占領作戦には、米国に借りた艦船10隻を含む17隻が参加。ソ連軍は各島で日本兵の武装解除を行い、4島の占領は9月5日までに完了した。

 記事には、和田春樹・東京大学教授が次のような談話を寄せている。

「北方4島を含むソ連の対日作戦を米国が軍事援助していたことは、日本ではほとんど知られておらず、発見と言える。ソ連が勝手に行ったのではなく、米国をリーダーとする連合国の作戦だったことを示す」

 日本がポツダム宣言を受諾して降伏した後に、ソ連は日ソ中立条約を破棄して千島列島を南下、樺太からのソ連軍は米軍がいないことを確認して、択捉、国後島、歯舞群島、色丹島に侵攻したという「常識」を覆す話だ。

戦後も色丹島でロシア人との混住を経験した得能宏さん
戦後も色丹島でロシア人との混住を経験した得能宏さん Photo by M.A.

 ソ連が樺太南部と千島列島での作戦に投入した全艦船を調べた、ロシア・サハリン州戦勝記念館のイーゴリ・サマリン科学部長の論文を、同紙根室振興局が入手した。調査を主導した谷内紀夫前副局長は、「ボリス・スラビンスキーの著書『千島占領・一九四五年夏』(1993年)には、この経緯の一端が出ているが、話題にならなかった」と言う。

 記事を見た千島歯舞諸島居住者連盟の宮谷内亮一・根室支部長は、「驚いた。ソ連の占領に関わっていたのなら領土問題はアメリカにも責任がある」と話す。旧島民も初耳の人は多い。一方、連盟の脇紀美夫理事長(元羅臼町長)は、「日本が降伏しているのに攻めて占領したソ連に対して、当時、アメリカが強く非難したということは聞かないから、米国のソ連軍支援は十分考えられる」と話す。

 日本政府が「米軍の援助」を知らなかったはずはないが、冷戦下、米国とともに反ソ感情を煽るためにも都合の悪い事実だった。納沙布岬にある北方館の小田嶋英男館長も「ソ連は当時、連合国の一員なのでおかしくはない。引き揚げてきた人は国籍不明の船を見たとか、ロシアの船ではないと話していた。でも、ソ連軍の4島の占領にアメリカが関わった歴史を出さない方がいい、ということだったのでしょう」と推測する。

 事実は北海道新聞の報道後、釧路新聞と根室新聞が報じたが、全国紙は無視した。中央メディアも外務省などに問い合わせはしたはずだ。米国に追従する安倍政権に「忖度」したのなら、情けない話だ。現代史の中で語られる出来事は、今の政治に直結しているケースが多いため、こうしたことは多い。日露首脳会談のときだけ賑やかになる北方領土問題も、その実、4島をめぐる現代史の根本事実すら国民には知らされていない。 

一般人が島へ行くことはできるか?
「渡航禁止」にも矛盾はらむ外務省

 さて、こうした複雑な歴史を持つ北方領土だが、日本人が島を訪れることはできるのか。結論から言えば、行けないことはないものの、一般人が訪れるのはなかなか困難だ。

 時代を遡れば、1989年4月、北海道新聞がメディアとして戦後初めて北方領土、国後島の上陸取材を報じた。まだソ連時代でロシア人でも簡単には入れなかった。歴史的快挙だ。

 当時、筆者が親しくしていた札幌領事館のイワノフという副領事(日本語が堪能だった)は、「あんなところに大した秘密も何もないんです。日本のような発展した国の人に、あんな遅れた場所を見せたくないんですよ」と話した。

 残留日本人や韓国人などの取材でサハリンに通っていた筆者は、自然やロシア人の素朴さには魅かれたが、「何と後れた場所か、1世紀前に戻ったようだ」と感じていた。戦後初めて故郷を再訪した引揚者の女性も、「ロスケ(筆者注:ロシア人。必ずしも蔑称ではない)は何してたのよ。日本時代の方が進んでたわ」と呆れていた。

 ソ連社会の中で、極東地方はモスクワから見放された地域。筆者は「サハリン本島でこれなら、北方領土(同じくサハリン州)なんてどんなに原始的か」と感じていたので、イワノフ氏の話は納得できた。

 1992年に「ビザなし交流」が始まった。4島交流、墓参り、自由訪問などがあるが、誰でも行けるわけではない。元居住者(子孫を含む)、返還要求運動関係者、報道関係者、学者などの専門家に限定される。日本政府は一般人の渡航を自粛するように求めている。「旅券や査証を取っての上陸はロシアの領土であることを認めてしまう」というのが言い分だ。

ソ連に億単位のカネを払って
北方領土の海域で漁をさせてもらう

 とはいえ、北方領土や領海をめぐっては、政府とて「建前と本音」の狭間で矛盾だらけ。たとえば、一時期の中断を含めて1960年代から続く夏場の「貝殻島の昆布漁」は、ロシアに億単位の入漁料を払って北方領土の海域で昆布漁が続く。「日本固有の領土、領海」なら金を払うのは明らかにおかしいが、漁民救済の一助として止むを得ないのだ。

 旅券、ビザで上陸した北海道新聞の記事をきっかけに、1990年代はピースボートなど様々な団体が旅券を取って、サハリン経由で北方領土へ渡っている。政府とて、こうした行為を日本の法律で取り締まることはできない。

 1988年、アイヌ民族の男性が「国後のアイヌと共同事業をする」と言い、北海道水産部の制止を振り切って小舟で国後島へ渡った騒動があった。仲間と「ウタリ合同」というソ連との合弁会社を立ち上げて、色丹島海域で大量のカニを水揚げしてきた。北方領土を外国と認めてしまうことになる。結局、北海道海面漁業調整規則違反に問われ、国内法がソ連の実効支配海域に及ぶか どうかが最高裁まで争われたが、「及ぶ」と認定され、有罪となった。

 検疫も税関も無視だから、戻れば検疫法違反や関税法違反などに問われる可能性があった。しかし、そうすると「北方領土を外国と認めてしまう」ことになるためか、その男性の罪は問われなかった。政府としても「痛し痒し」だったのだ。

 日本人にとって「近くて遠い」北方領土――。返還を唱えるならば、まずはかの地を取り巻く状況がどうなっているのかを、日本人一人ひとりが深く知ることから始めるべきではないか。

(取材・文・撮影/ジャーナリスト 粟野仁雄)


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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