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権田修一がサガンでの安住を捨て、あえて海外へ再挑戦する理由

文● 藤江直人(ダイヤモンド・オンライン

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日本代表ゴールキーパー権田修一選手
Photo:AP/AFLO

UAE(アラブ首長国連邦)で開催されていた4年に一度のアジアカップは、森保ジャパンの無念の準優勝で幕を閉じた。決勝では次回ワールドカップ開催国のカタール代表に完敗を喫した今大会は、1998年以降の日本代表の歴史の中で、川口能活、楢崎正剛、川島永嗣以外の守護神が初めてゴールマウスを守った国際大会でもあった。レジェンドたちからバトンを受け取った権田修一は、決勝直前にポルティモネンセSC(ポルトガル)への完全移籍が発表されている。30歳になる直前に、レギュラーが約束されたサガン鳥栖をあえて飛び出した思いに迫った。(ノンフィクションライター 藤江直人)

12歳で憧れた川口能活という存在

 日本代表という普遍的な存在を触媒とする形で、権田修一は海外でプレーする夢を追いかけ続けてきた。記憶をさかのぼれば、最初はFC東京U-15に加入して約半年が過ぎた2001年の秋。憧憬の思いを注いでいた川口能活が、イングランド2部のポーツマスFCへ移籍した直後だった。

 権田は1989年の早生まれだから、当時はまだ12歳だった。それでも、1996年のアトランタ五輪で王国ブラジル代表を撃破する「マイアミの軌跡」の立役者の一人となり、1998年のフランス大会では日本代表を悲願のワールドカップ初出場に導いた若き守護神の勇姿に魅せられた。

「ただ、すごく遠い存在のように感じられましたね。あの頃は海外の試合をテレビで見られる機会がほとんどなかったし、今みたいにスマートフォンにすぐニュースが出たわけでもないので、週1回発行のサッカー専門誌で記事を読むくらいしかできなかったですから」

 川口と至近距離で遭遇したこともある。さかのぼること1997年。神奈川・川崎市内で活動するさぎぬまSCに所属していた小学校4年生の権田が、マリノスカップという大会に出場した時だった。

「プレゼンターを務めていたのが能活さんだったんですよ。思わず『やばい、川口選手だ』と焦っちゃうほど憧れていましたから。能活さんを真似して低いパントキックを蹴るようになった、あるいはボールへ果敢に飛び込むようになったゴールキーパーが、僕を含めてけっこういたと思うんですよね」

 ほどなくして川崎市選抜、そして神奈川県選抜に選出。ゴールキーパーとして将来を嘱望される存在となった権田にとって、レギュラーが約束された横浜F・マリノスをあえて飛び出し、日本人のゴールキーパーとして初めてヨーロッパへ挑んだ川口の背中は未来への羅針盤となった。

ベルギーに渡った川嶋永嗣から受けた衝撃

 迎えた2010年の秋。FC東京U-18をへて昇格したトップチームで不動の守護神を拝命。年代別の日本代表にも名前を連ねてきた権田は、イタリア人のアルベルト・ザッケローニ監督に率いられる日本代表の始動とともに招集された時に、決して小さくはないカルチャーショックを覚える。

 視線の先には守護神を務めた2010年夏のワールドカップ南アフリカ大会直後に、川崎フロンターレからベルギーのリールセSKへ移籍した川島永嗣(現RCストラスブール)がいた。

「元々すごい選手ですけど、勝負を分けるディテールに対する深みやこだわりというのは、海外へ行ったことでさらに増したんじゃないかと僕は感じました。だからこそ、ワールドカップを含めた世界大会で、高いレベルでプレーし続けられた。自分が目指さなきゃいけないところだと感じたんです」

 当時の川島は27歳。大宮アルディージャでプロの第一歩を踏み出した2001年からさまざまな外国語をマスターし、ワールドカップに出場する、しないにかかわらず、2010年夏の段階で海外へチャレンジする青写真を描き続けてきた意図を、こんな言葉で説明したことがあった。

「日本のゴールキーパーが海外のチームでプレーすることがいかに難しいかは、自分の中でも身にしみて分かっている。だからこそ非常にやりがいのあるチャレンジだし、自分のパフォーマンスがよければ上へ行けるチャンスはたくさんある。いい形で成功して、日本人キーパーの今後につなげていきたい」

 残念ながら、チャレンジの系譜は川島で途切れたままになっている。正確に言えば、流通経済大学在学中の2009年9月にイングランドでプロになった林彰洋(現FC東京)は2012年1月に帰国。そして、2016年1月に権田がオーストリアへ渡るも、わずか1年で帰国を余儀なくされている。

オーストリアへ、初の海外挑戦の苦い思い出

実質的なオーナーを務める本田圭佑(現メルボルン・ビクトリーFC)から誘われる形で、FC東京からオーストリア3部リーグのSVホルンへ期限付き移籍。2部へ昇格したシーズンの真っ只中だった2016年の年末に契約満了を告げられたチャレンジの日々を、権田はやや自虐的な言葉で振り返る。

「オーストリアリーグからワールドカップに出ている選手は一人もいない。その中で僕は(ホルンの)次のチームがなかったレベルの選手ですから。変な話ですけど、その僕が日本代表に入っているくらいだったら、(川島)永嗣さんみたいに世界レベルのゴールキーパーと渡り合っていくのは難しい。だからこそ、もっともっとレベルアップしていかなければいけない。世界的に見れば、日本人のゴールキーパーがまだまだストロングポイントではない、という現状があるので」

 オーストリアへ渡る前後は文字通りのどん底にいた。川島、西川周作(浦和レッズ)とともに2014年のワールドカップ・ブラジル大会代表に選出され、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督の初陣だった2015年3月のチュニジア代表との国際親善試合では、先発フル出場で完封勝利に貢献した。

 しかし、その年の夏にオーバートレーニング症候群を発症。戦列復帰を果たせないまま2015シーズンを終えると、復活を期して加入したホルンでもデビュー2戦目で右脛骨を骨折。契約を残していたFC東京をあえて退団してヨーロッパでのプレーを希望するも、夢はかなわなかった。

 当面は無所属となることを覚悟の上で、傷心を抱えたまま帰国したのが2017年2月。電光石火のオファーを出しくれたサガン鳥栖のゴールマウスを守り続け、時間の経過とともに自信を蘇らせてきた軌跡は、約3年7ヵ月ぶりの国際Aマッチ出場へとつながっていく。

サガンの正GKから日本代表の守護神へ

 森保ジャパンが船出して2戦目となる、10月12日のパナマ代表とのキリンチャレンジカップ2018。先発フル出場して3-0の完封勝利に貢献した権田だったが、ザッケローニ元監督から将来性を高く評価された時の自分に戻った、という表現には思わず苦笑いを浮かべている。

「戻ってきたというよりは、あの頃よりも上手くなっていたい、という思いがある。サッカーができなかった時期もちょっとありましたけど、その後はしっかりとトレーニングを積み、試合にも数多く出てきた中で、FC東京にいた時を上回っているという感覚を持ちたい。戻るとなるとあの頃がピークで、一度マイナスになったのがゼロになる、という感じなので」

 昨シーズンのサガンは前半戦で泥沼の7連敗を喫するなど、最終節まで熾烈なJ1残留争いに巻き込まれた。権田にとっては2009シーズン以来となる修羅場であり、この時はFC東京をJ1残留に導くことができなかった。しかし、8年前とは違う部分があると力を込めたことがある。

「あの時は自分たちの試合が終わったら、すぐに他のチームの試合結果をチェックしていたことが、チーム全体としてよくなかった。今はシンプルに『勝ち点40を積み重ねないと残留できない』と、みんなにも常に言っている。他のチームがどうこうよりも、まずは自分たちに対してモチベーションを持っていかなければいけない」

 人事を尽くして天命を待つ、となるだろうか。どん底を味わわされた日々で特にメンタルを磨き上げた権田の思いが言霊となる形で、サガンは最後の5試合で3勝2分けとV字回復。勝ち点41で5チームが並ぶ未曾有の大混戦で、得失点差で14位に踏ん張って残留を果たした。

 魂をすり減らす戦いが続いた中で、権田は全34試合、3060分にフルタイム出場。終盤戦ではチームの危機を救う、鬼気迫るファインセーブを連発し、チームメイトによる投票で選出されるMVPに輝いた。その過程で日本代表への復帰を果たし、アジアカップで6試合に渡って先発を勝ち取った。

日の丸を背負って感じる3つのこと

 再び日の丸を背負う戦いに身を投じて、あらためて感じたことが3つある。まずは権田の中における日本代表チームの立ち位置だ。

「上手い人たちの中でサッカーをするのは、シンプルに楽しいですよ。海外組にとってはそれぞれの所属チームのレベルの方が高いかもしれないですけど、国内組にとっては間違いなく代表のレベルの方が高い。サガン鳥栖でちょっといいパフォーマンスをしたとしても、代表でもっといいパフォーマンスを演じなければいけない、と意欲的になれるので」

 もうひとつは、日本代表の歴史に名前を刻んできた守護神の顔ぶれだ。ワールドカップでゴールマウスを守ったのは川口、楢崎正剛、そして川島しかいない。コンフェデレーションズやアジアカップなどの国際大会でも、2000年以降ではこの3人だけがレギュラーを拝命してきた。

 くしくも昨シーズン限りで川口と楢崎が相次いで現役を引退した。3月で36歳になる川島も、森保ジャパンでは一度も招集されていない。32歳の東口順昭(ガンバ大阪)、27歳のシュミット・ダニエル(ベガルタ仙台)とともに招集され続けた意義に、権田は思いを馳せたことがある。

「日本代表のキーパーは今、変革期にあるというか、新しく選手が出てきている状況ですよね。そのタイミングで『日本のキーパーは、やっぱりあの3人じゃないとダメだ』と言われればそこまでだし、だからこそ選ばれている僕たちには『日本にはこういう選手もいる』というところを、どんどん見せていく責任がある。プレッシャーを感じるのではなく、僕は僕のよさ、東口選手は東口選手のよさ、ダン(シュミット)はダンのよさを出して、それぞれが日本のキーパー像をそれぞれの形で作っていけばいい。能活さんやナラさん(楢崎)みたいなことをしなきゃいけないとも思わないし、永嗣さんの真似ごとをしても上手くいかない。それぞれがベストを尽くせばいい」

 最後はサガンでプレーしている日々でも胸中に抱き続けた、海外挑戦へ対する熱き思いだ。ポルトガル1部のポルティモネンセSCへの移籍が報じられた昨年末。日本人のゴールキーパーが海外でプレーする価値について、権田は偽らざる思いを明かしている。

「FC東京時代から抱き続けていることですけど、僕としては海外で、それもレベルの高いチームでプレーしたいという気持ちがある。再び日本代表に選ばれるようになってからも、ウルグアイ代表戦やベネズエラ代表戦をベンチから見ていて、こういう相手とワールドカップで対戦した時に、相手のキーパーを上回るプレーにこだわっていかないと絶対に勝てない、とあらためて感じているので」

 カタール代表と対峙したアジアカップ決勝を直前に控えた先月29日に、ポルティモネンセSCへの移籍が正式に発表された。先発全員が海外組となった大一番はしかし、1-3の完敗に終わった。失点が勝敗に直結するポジションであるがゆえに、権田には少なからず批判が浴びせられた。

 だからこそ、30歳になる直前の今、再び海を渡る。レギュラーが約束されたサガンをあえて飛び出し、チャンスをくれたポルトガルの地でさらなる「成長」の二文字を追い求める。アジアカップで味わわされた悔しさを糧にして、川口から川島を介して託されたバトンを再び握り締めながら、日本人ゴールキーパーのステータスを高めていくための崇高なるチャレンジが幕を開ける。


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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