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セレッソ社長に森島寛晃、日本一腰の低いJリーガーが大抜擢された理由

2018年12月26日 06時00分更新

文● 藤江直人(ダイヤモンド・オンライン

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セレッソ大阪・森島寛晃
セレッソ大阪の社長に就任した「ミスターセレッソ」こと、森島寛晃氏 Photo by Naoto Fujie

Jリーグに異色の経営トップが誕生した。今月21日付けでセレッソ大阪の代表取締役社長に就任したのは日本代表として長く活躍し、ワールドカップのヒノキ舞台でゴールも決めたOBの森島寛晃氏。現役時代は「日本で一番腰の低いJリーガー」と呼ばれ、謙虚で飾らない人柄と相まって誰からも愛された初代ミスターセレッソは、なぜ経営者として白羽の矢を立てられたのか。セレッソひと筋に情熱のすべてを捧げてきた半生を振り返れば、青天の霹靂にも映る舞台裏が見えてくる。(ノンフィクションライター 藤江直人)

コンサドーレ札幌・野々村社長は
静岡でしのぎを削った同い年の同志

 誰よりもセレッソ大阪を愛しているがゆえに、気がつくとスマートフォンを握っていた。次期代表取締役社長への就任が内定していた森島寛晃は師走に入って、同じ1972年生まれで誕生日も8日違いの、北海道コンサドーレ札幌の野々村芳和代表取締役社長へおもむろに電話を入れている。

 森島が東海大一高なら、野々村は清水東高の出身。サッカー王国静岡でしのぎを削り合い、前者は1991年にセレッソの前身ヤンマーディーゼルサッカー部へ、後者は慶應義塾大学を経て1995年にジェフユナイテッド市原へ加入。プロの舞台でもライバルとして意識し合ってきた。

 コンサドーレでプレーした2001年を最後に引退した野々村は、2013年3月に現職へ就任。解説者として人気を博していた最中の転身に誰もが驚かされたが、今やコンサドーレは北海道の広大な土地に眠る潜在能力を掘り起こし、営業収益で右肩上がりの軌跡を描いている。

 連動するようにチームも年々強化され、今シーズンはJ1で歴代最高位となる4位に躍進。船頭を担う旧友の眩しい背中へ畏敬の念を抱いてきたからか。周囲から「大丈夫か」と心配されながらも、大役を拝命する覚悟を決めた森島は、まず野々村へ電話を入れたのだろう。

「野々村社長とは東京でも一度お会いする機会があって。これからいろいろと勉強させてください、と伝えました。さまざまな話をする中で『分からないこともあるだろうけど、やれることもたくさんある』と言われました。いろいろな方の意見も聞きながらしっかり判断して、チームをいい方向に導きたい」

 東京で会った機会とは、今月中旬に開催されたJリーグ実行委員会。J3までを含めたすべてのJクラブの実行委員(代表取締役)を前に、セレッソの次期代表取締役社長として初めて挨拶した森島は、期待を込められた万雷の拍手で歓迎されている。

 そして、続けて行われた懇親会の席で、さっそく野々村と話し込んだ。実行委員の面々に森島を紹介したセレッソの玉田稔前代表取締役社長は、その時の光景を思い出しながら目を細める。

「同じ年齢で仲も良くて、静岡の高校時代から切磋琢磨してきた2人ですからね。これからも的確なアドバイスを送ってくれるんじゃないでしょうか」

他チーム選手にもアドバイスを求める
「ミスターセレッソ」としての意地

 野々村とのやり取りを聞いて、18年前に森島が取った行動を思い出さずにはいられなかった。2000年5月20日。J1のファーストステージで2位につけていたセレッソは、勝ち点わずか1ポイント差で首位に立つ横浜F・マリノスのホーム、三ツ沢球技場での決戦に臨んだ。

 残りは2試合。負ければ目の前でマリノスに優勝を決められ、勝てば逆王手をかけられる。しかし、Jリーグに参戦して6年目のセレッソは、生きるか死ぬかの大一番を経験したことがない。どのように戦えばいいのか。思考回路をフル稼働させても、ヒントすら浮かんで来ない。

 気がついた時には森島は携帯電話を握りしめ、藁にもすがる思いで「どのようにすれば大事な試合で勝てるのか」と問いかけた。相手は黄金時代を迎えていたジュビロ磐田で司令塔を担う名波浩。同じ1972年生まれで、静岡・清水商業高時代から天才と称されたレフティーは静かに切り出した。

「まずは守備を一生懸命頑張ること。そうすればチーム全体が、少しずつ落ち着いてくるから」

 日本代表としてもワールドカップ・フランス大会をともに戦った盟友から伝えられた、プレッシャーを力に変える術。地に足を着けて戦えたセレッソは、2点のリードを追いつかれる展開にも動じず、後半終了間際にあげた決勝ゴールで天王山を制した。

 愛するセレッソのためならば、例えチームの垣根を越えてでもアドバイスを求める。昔も今も、ユニフォームを着ていてもスーツにネクタイ姿になっても、森島を駆り立てる原動力は変わらない。

 もっとも、18年前はちょっと笑えない後日談がある。マリノス戦の1週間後に迎えたファーストステージ最終節。小雨が舞ったセレッソのホーム、長居スタジアムには4万3193人の大観衆が集結。スタンドをチームカラーのピンクに染めて、自力で決められるステージ制覇を後押しした。

 しかし、セレッソの選手たちはキックオフ直後から精彩を欠く。1-1のまま突入した延長戦の後半開始早々に決められた延長Vゴールで、最下位の川崎フロンターレにまさかの黒星を献上した瞬間、ジェフを下した旧国立競技場で待機していたマリノスの再逆転優勝が決まった。

「最下位のフロンターレが相手でしたから、戦う前からもう優勝したかのような雰囲気になっていて。みんなで『ヘルメットをかぶった方がいいかな』と、祝勝会のビールかけに備えた話をするほど勘違いが生まれていた。そうした心の油断もあって、実際に試合が始まったら僕も含めて心と体がガチガチでした」

 苦笑しながら当時を振り返ったことのある森島は、この時で心技体のすべてに脂が乗った28歳。加入して10年目を迎えていたセレッソはプロ化への対応が遅れ、Jリーグが華々しく産声をあげた1993年に参戦した、いわゆる「オリジナル10」の中に名前を連ねられなかった。

 ようやく昇格を果たしたのは1995年。この間には生まれ故郷の広島市をホームタウンとするサンフレッチェ広島から移籍のオファーが届いたが、セレッソへの愛を貫く形で固辞している。そして、2001年のオフにも、リスクを覚悟の上で森島はセレッソへ残留することを優先させている。

 2001年のセレッソはファーストステージから低迷。2度の監督交代もあって年間総合順位で最下位に終わり、初めてのJ2降格が決まった。けがもあって連続2桁ゴールが4シーズンで途切れていた森島は、前線でコンビを組んだ清水東高出身のFW西澤明訓とともに残留することを決めた。

「悔しさよりも自分が何もできなかった、という思いの方が強かった。なので、はなからセレッソを出る考えはなかったですね。実際のところ、移籍のオファーがあったかどうかも分からないんですけど」

 ワールドカップ日韓共催大会が半年後に迫っていた。J2所属選手が代表に選ばれるのか――不安は杞憂に終わった。トルシエジャパンに選出された森島は、慣れ親しんだ長居スタジアムで行われたチュニジア代表とのグループリーグ最終戦で先制ゴールをゲット。日本を決勝トーナメントに導く勝利を手繰り寄せた。

「僕が代表で何を残したかと言えば、あのチュニジア戦しかないですからね。現役でいる間に子どもの頃から憧れてきたワールドカップが日本で開催され、しかも自分が代表に選ばれて、いろいろな組み合わせの中で日本の試合が長居で行われることも縁を感じていたし、そもそも僕がセレッソの一員にならなければ特別なゴールにはならなかった。その意味でも、サッカー人生の中で忘れられないシーンですね」

元日本代表のトップ就任は初
異例の人事が行われた理由とは?

 選手出身の代表取締役社長は、森島や野々村の他にもいる。来シーズンのJ1では、FC東京の大金直樹が前身の東京ガスサッカー部出身。最年少となる41歳の神田文之も2015年2月に、現役最後の1年をプレーした松本山雅FCの舵取り役を託された。

 それでもワールドカップに臨む日本代表として歴史に名前を刻み、ゴールまで決めた選手がトップに就任するケースはJ3までを含めても前例がない。ましてや森島は、2008年の引退後はセレッソの監督になる夢を公言。セレッソのアンバサダーをへて、2016年からはフロント入りして強化を担ってきた。

 同時進行でJクラブの監督を務めるために必要な、日本サッカー協会(JFA)発行の指導者公認ライセンスをA級まで取得。残るは最難関にして時間もかかるS級に挑む状況だったが、代表取締役社長就任を機に夢を当面は封印する決意も固めている。

 GM職や強化部長などを担うのならば、特に驚かされることもない。それでも組織経営の責任を担うトップとなれば、森島をして「まさかそういう話があるとは思わなかった」と言わしめるほどの青天の霹靂であり、最初に打診された10月中旬には「丁重にお断りを入れた」のもうなずける。

 夫人を含めた周囲に相談を重ねながら、約1ヵ月後には大役拝命を受諾した。21日に大阪市内で行われた臨時の株主総会及び取締役会で就任が正式に承認された森島に、腹を括らせた最大の理由は何なのか。答えは選手、アンバサダー、そしてフロントの一員として間近で見てきたセレッソの歴史にある。

 前述したようにファーストステージで優勝争いを演じた翌2001年に、セレッソはJ2へ降格している。同じ図式はJ1初優勝に王手をかけて最終節に臨みながら、試合終了間際の失点でFC東京に敗れ、一気に5位へ転落する悪夢を味わわされた2005年の翌シーズンにも繰り返されている。

 そして2010年には3位に、2013年には「セレ女ブーム」を巻き起こしながら4位に躍進しながら、いい流れを継続できないまま2015年にはまたもやJ2での戦いを余儀なくされた。クラブの方向性をつかみかけては見失う負のスパイラルを食い止めない限り、本当に意味での強さは身にまとえない。

 玉田前社長の言葉を借りれば、セレッソの歴代社長はトップパートナースポンサーのヤンマー株式会社及び日本ハム株式会社から「落下傘的にやってきて、3、4年務めて帰っていく」形が取られてきた。玉田前社長自身もヤンマー出身だけに、歴史を変える異例のメスが入れられたことになる。

「強いクラブには歴史というか伝統がある。鹿島や川崎を見れば、GMが長い期間、しっかりとクラブを見ることが必要だと分かる。その意味でウチはモリシ(森島)がポジションこそ違うけれども、初代ミスターセレッソとしてクラブを一から十まで知っている。加えて、選手出身ならではの目線や新たな視点でクラブの経営にあたってくれるという期待がある。なので、彼の場合は長期政権になると思っています」

 ヤンマー及び日本ハムの強い意向を受けて、大抜擢に至った理由を玉田前社長はこう説明した。強化部門ではなく、組織全体の責任者として今も愛してやまないセレッソを常勝軍団へ変貌させていく。覚悟を決めた青年社長を支えるために、不慣れな数字面などを担う人材も周囲に配置された。

「セレッソというクラブを今まで以上にいい方向に導く、という責任感を誰よりも強く持って臨みたい。主役である選手たちがピッチでより輝けるように、僕たちがいい環境を作ってサポートしていきたい」

 スタッフから手渡されたタオルで額に光る汗を拭いながら、新社長は所信を表明した。現役時代には「日本で一番腰の低いJリーガー」と呼ばれた面影は、経営者の道を歩み始めるこれからも変わらない。第一声を発する直前にも、会見のために用意された部屋へ頭を深々と2度下げてから入ってきた。

「まだ社長と呼ばれることに慣れていなくて。すみません」

 セレッソとして初タイトルを獲得した昨シーズンのYBCルヴァンカップでは胴上げされるも、4回宙を舞うところを2回でピッチに落とされた。誰からも愛されるキャラクターの持ち主は、謙虚で飾らない人柄をそのままに、さらには「これからはしっかりと背筋を伸ばして」と誓いを立てながら、セレッソの一員になって29年目にして未知のチャレンジを踏み出す2019年の幕開けを心待ちにしている。(文中敬称略)


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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