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ロッテ福浦和也がドラフト7位から2000本安打の名選手になるまで

2018年09月26日 06時00分更新

文● 藤江直人(ダイヤモンド・オンライン

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千葉ロッテマリーンズのレジェンド、福浦和也内野手が22日の埼玉西武ライオンズ戦の8回裏に右越え二塁打を放ち、史上52人目の通算2000本安打を達成した。42歳9ヵ月での大台到達が2番目の年長記録ならば、ドラフト会議の最終指名選手による達成も、一軍初出場が4年目の選手による達成もともにプロ野球の歴史上で初めての快挙。名門・習志野高校からピッチャーとして入団して四半世紀。生まれ育った千葉を心から愛し、老若男女の垣根を超えて愛され続ける「幕張の安打製造機」が、本拠地ZOZOマリンスタジアムで万感の思いに浸るまでの波瀾万丈に富んだ野球人生を追った。(ノンフィクションライター 藤江直人)

ドラフト7位、投手として入団
コーチの助言で「バッター」へ転向

福浦和也
福浦和也内野手は元々投手として千葉ロッテに入団した 写真:アフロスポーツ

 4位で選択を終了したオリックスに続いて、巨人など7球団が5位まで、広島など3球団も6位までを指名して席を立った。1993年11月20日午後5時から、東京・港区の新高輪プリンスホテルで開催されたプロ野球のドラフト会議。ロッテだけが7位の選手を指名した。

「福浦和也 投手 17歳 習志野高校」

 この年に指名された総勢64人の選手の中で最後に名前を呼ばれた福浦はその時、市立習志野高校のグラウンドで黙々と練習していた。

「もう日が暮れて真っ暗になっていましたけど、とにかく嬉しかった。スカウトの方は何回か学校に来てくれましたけど、指名されるという自信はなかったので」

 千葉県習志野市で生まれ育ち、谷沢健一(中日)や掛布雅之(阪神)らを輩出した名門校でエース兼四番を務めた少年は、指名されなければ社会人チーム入りを考えていた。吉報を受けて当時の支配下選手では最も大きな「70番」を背負い、1992年から千葉県に本拠地を移していたロッテで憧れのプロ選手になった。

 担当スカウトからは「左腕は貴重だ。すぐにでは無理でも、3、4年で一軍に上がれるように」とエールを送られた。しかし、1994年のキャンプが始まってすぐに肩を痛めてしまう。基礎練習に明け暮れていた開幕直後のこと。午前中の練習を終えた直後に、山本功児・二軍打撃コーチに呼び出された。

「ちょっと打ってみろ」

 静岡・御殿場西高校からドラフト6位で入団した同期生、小野晋吾とともに昼食時で誰もいない二軍の浦和球場でフリー打撃に臨んだ。そして、終了後に再び山本コーチから声をかけられた。

「お前、今すぐバッターに転向しろ」

 まさに青天の霹靂。福浦が自らの耳を疑ったのも無理はない。ピッチャーとして入団して、まだ一度もマウンドに立っていない。投げることへの未練の方が、はるかに大きかった。

「最初はちょっと受け入れられなかったというか、ちょっと待ってください、という感じでしたね」

 しかし、その後も顔を合わせる度に、華奢な福浦の体に宿る天性の打撃センスに惚れ込んだ山本コーチから「まだピッチャーをやっているのか」と転向を勧められた。そして、7月のオールスター戦前には醍醐猛夫・二軍監督から正式に転向を命じられた。もう断れないと観念した福浦の、プロの世界でバッターとして生き抜いていくための挑戦の日々が幕を開けた。

「左利きということもあって、守るのはファーストだけ。外野の『が』の字もありませんでした。二軍で遠征した時も試合後に特守、浦和に戻ってきても室内練習場でまた特守。寮住まいで時間はたっぷりとあったので、夜には再び室内練習場で今度は特打という感じでした」

 2001年に首位打者を、2003年、2005年、2007年には一塁手として3度のゴールデングラブ賞を獲得。名手と呼ばれるまでに至った下地を作った日々を苦笑いを浮かべながら振り返ったのは、通算2000本安打まで残り88本と迫っていた2016年のキャンプ前だった。

2001年からは6年連続で打率3割
ベテランになっても大晦日まで練習

 背番号が誰よりも大きいこともあって、二軍の試合では「お前はコーチか!」と心ない野次を何度も飛ばされた。4年目の1997年も二軍スタート。キャンプでは裏方さんと同室になり、「裏方のドラフト1位」と囁かれた。球団側に他意はなかったが、福浦本人もさすがに危機感を覚えた。

 ただ、この年からロッテを率いた近藤昭仁監督はミートする能力に長け、ライナー性の打球を広角に弾き返すことができる福浦の存在を気に留めていた。迎えた7月4日。ついに一軍から声がかかる。二軍の秋田遠征に帯同していた福浦は、ちょうど夕食へ繰り出していた。

「夜になって急にマネージャー室に呼ばれて。びっくりしましたよ。何か悪いことをしたのかと思いましたけど、そうした心当たりもない。すると『明日から一軍だから』と。またびっくりですよ。緊張して夜も眠れなかったので、バットを振っていました。飛行機は悪天候ですごく揺れたんですけど、おかげで爆睡できました。重い荷物を抱えながら羽田空港から千葉マリンスタジアム(当時)へ急ぎましたけど、試合前の練習もほとんど終わっていて、最後にちょっとだけバッティング練習をして。そうしたら、先発で行くと言われてまたまたびっくりですよ」

 オリックスとの14回戦で「七番・ファースト」で先発した福浦は四回裏に回ってきた第2打席で、右腕ウィリー・フレーザーからセンター前へポトリと落ちるプロ初安打を放つ。翌年からは今現在も背負う「9番」に変えてヒットを積み重ね続け、実働22年目となる今年9月22日の西武との24回戦で、プロ野球史上で52人目となる大台到達を成就させた。

 2001年からは6年連続で打率3割を達成。いつしか「幕張の安打製造機」と呼ばれたが、30歳を超えてからはけがに悩まされるようになった。2009年を最後に年間100安打と規定打席到達を果たせず、安打数は左足首痛で大きく出遅れた2016年が20本、昨年が30本に終わっている。

 それでも、本拠地のライトスタンドを埋めるファンは『俺達の福浦』と命名された応援歌を熱唱し、榎本喜八、有藤通世に続く球団史上3人目の大台到達を願い続けた。2015年6月15日のヤクルト戦では通算2000試合出場を達成。これも球団史上4人目の快挙だったが、「本来ならば2000本安打の方が早くないといけないですね」と苦笑した福浦は、独自の信念を常に貫いてきた。

「ヒットが欲しいあまりにボール球に手を出す、あるいはフルカウントからボール球を打ちにいくようなことがあれば本末転倒。四球もしっかり選んで、出塁率もアップさせて、なおかつ打てる時に打つ。そうでなければ、僕という打者は終わりだと思っています」

 個人の記録を求めるあまりに、我欲が上回るようになれば潔くユニフォームを脱ぐ覚悟があると明かしてから約1年後の2017年2月。再び取材する機会があった石垣島キャンプでは、90打席で5四球だった2016年の成績を「明らかに四球が少ない」と戒めることを忘れなかった。

「ファウルにすべき球を凡打にしている数が多いし、四球が少ない分だけ、当てにいっていることも確かですよね。ヒットほしさにバッティングを崩したくないし、そうなると自分の持ち味がなくなるし、何よりもチームにとってマイナスになる。自分のスタイルは何ら変えることなく、その上でチームの勝利に貢献できるような、価値ある一打を積み重ねていきたい」

 ベテランと呼ばれる領域に入ってからは、オフを含めて常にコンディションの維持に細心の注意を払い、その時点でできる100%の努力を自らに課し続けてきた。2015年の大晦日に本拠地のQVCマリンフィールド(当時)を訪れ、自主練習を積んだのは語り継がれる逸話と言っていい。

「年が明ければ挨拶回りなどもあるので、思い通りに練習できなくなる。なので、ランニングとウエートトレーニングだけでもと思ったら、大晦日ということもあってスタジアムが閉まっていた。警備の方からは『今日は使用できません』と言われましたけど、マネージャーに『上の人にかけあってください』と電話でお願いして、急きょ開けてもらいました」

プロ野球史上の快挙尽くしで名球会入り
本拠地での胴上げを夢見て26年目へ

 2013年のオフに小野が引退し、ドラフトの同期入団組では最後の一人となった。球界全体を見渡しても、1993年のドラフト組は今では松井稼頭夫だけとなった。西武からMLB、楽天をへて、今年から15年ぶりに古巣へ復帰した松井へは「お互いに刺激し合ってきた」と畏敬の念を抱く。

「仙台に遠征したときは稼頭央とよく食事に行ったし、その時はウチの若手選手も同席させています。実績がある選手なので、彼といろいろ話すだけで勉強になりますからね」

 ともに球界最年長野手となった盟友の目の前で2000本安打を達成したのも、運命に導かれた何かを感じる。福浦が二塁打を放った直後に試合は一時中断し、西武ベンチから歩み出てきた松井が真っ先に記念の花束を手渡す粋な演出もファンのさらなる感動を誘った。

 2016年4月23日には、バッター転向への道筋をつけてくれた恩師、山本さんが64歳の若さで死去する訃報が届いた。シーズンの合間を縫って神奈川・横浜市内で営まれた通夜に参列した福浦は、山本さんが見守る天国へ向けて恩返しの思いを新たにしたと後に明かしている。

「もしピッチャーのままだったら、とっくに現役をやめていたはずですから。そう考えると、山本さんには本当に感謝しかないですよね。二軍でもそうでしたし、一軍に上がってからもとにかくバットを振らされました。打てなくなると試合後に『ちょっと来い』とブルペンに連れていかれて、ひたすら振りました。よく怒られもしましたし、いろいろな思い出があるからこそ、僕が現役でプレーしている間は最後まで見届けてほしかったという思いもあります」

 和田一浩(中日)の42歳11ヵ月に次ぐ、史上2位の年長記録となる42歳9ヵ月での2000本到達を決めた右越え二塁打は、三打席無安打で迎えた八回裏に飛び出した。延長戦に入らなければおそらく最後の打席となり、一夜明けた23日からロッテは仙台、大阪と遠征に出る。

 何がなんでも千葉で打ちたい。祈りにも通じる熱き思いが、二塁へ滑り込んだ直後に見せた珍しいガッツポーズと、ライトスタンドへ向かって両手を振りあげたしぐさからも伝わってきた。今もプロ野球記録として残る1998年の18連敗、そして4連勝で阪神を退けた2005年の日本一を知る唯一の現役選手となる福浦は、こんな思いを明かしたこともあった。

「僕が初めて一軍に上がった頃のスタンドは、閑古鳥が鳴いていましたからね。盛り上がりを感じるようになったのは、あの18連敗を喫したあたりですね。球場から帰る途中のいたるところで、ファンから声援を送られたことを今でも覚えています。球場を訪れるファンの数がどんどん増えたのは、球団に関わる全員が千葉を盛り上げようと頑張ったから。ただ、僕は日本シリーズ優勝を2回経験していますけど、両方とも胴上げはビジターでした。やっぱりマリンで胴上げがしたいと、誰もが望んでいるんじゃないでしょうか」

 ドラフト会議での最終指名選手による達成も、一軍初出場が4年目の選手による達成も、ともにプロ野球史上で初めて。快挙尽くしで名球会入りを果たした苦労人を光り輝かせ、老若男女を問わずに祝福させたのは、生まれ育った千葉へ深い愛情を注ぎ続けた福浦に魅せられたからだ。そして、ひと時の感慨に浸った男の視線は本拠地での胴上げを夢見て、26年目となる来シーズンへとすでに向けられている。


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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