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森保一氏はなぜ無理難題の「二刀流監督」を引き受けたのか

2018年07月31日 06時00分更新

文● 藤江直人(ダイヤモンド・オンライン

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サッカー日本代表・森保一監督
サッカー日本代表就任会見での森保一監督 Photo:JFA/AFLO

2022年のワールドカップ・カタール大会でベスト8以上を目指す日本代表の新監督に、2年後の東京五輪に臨む男子代表を率いる森保一監督(49)が就任することが決まった。2000年のシドニー五輪でベスト8、2002年のワールドカップ日韓共催大会ではベスト16に日本を導いた、フランス人のフィリップ・トルシエ氏以来となる兼任監督は、7月26日に都内で急きょ開催された就任会見の席上で、強化スケジュールの大半が重なる2つカテゴリーを率いていく上での決意を2つの単語に集約させた。それは「覚悟」と「感謝」――。日本サッカー界の成り立ちを熟知した、日本人指揮官だからこそ胸中に抱くに至った2つの思い。その背景にある事情と歴史を追った。(ノンフィクションライター 藤江直人)

トルシエ氏以来の“二刀流監督”も
当時とまったく異なる状況に抱く「覚悟」

 超がつくほどの真面目な性格。絶対に自分を飾らない誠実な人柄。そして、黒子に徹することをよしとする謙虚な存在感。誰からも慕われ、厚い信頼を寄せられてきた人格者らしい第一声だった。

 東京・港区内のホテルで、7月26日午後6時35分から急きょ開催された記者会見。別の場所で行われていた日本サッカー協会(JFA)の理事会で次期日本代表監督として承認され、契約書にサインしたばかりの森保一氏が、JFAの田嶋幸三会長、関塚隆技術委員長とともにひな壇に座った。

 田嶋会長と関塚委員長に続いてマイクを取った森保新監督は、メディアからの質疑応答に移る前の挨拶、いわゆる所信表明に実に15分近くもの時間をかけた。しっかりと言葉を選び、やや緊張した面持ちを浮かべながら、2年後の東京五輪に臨む男子代表チームに続き、4年後のワールドカップ・カタール大会を目指すA代表の監督も務める激務へ挑む決意を2つの単語に集約させた。

「2つの代表チームを率いていくには、覚悟が必要だと思っています。そして、我々日本代表が本当に多くの方に支えらえて活動できることにも感謝しています。『覚悟』と『感謝』。この2つ気持ちを抱いて、職責をまっとうしていきたいと思っております」

 五輪代表監督とA代表監督の兼任は、日本サッカー界がプロ時代を迎えた1992年以降に限れば、2000年のシドニー五輪と2002年のワールドカップ日韓共催大会で指揮を執った、フランス人のフィリップ・トルシエ氏以来、2人目となる。

 もっとも、当時とは状況がまったく異なることが、森保新監督に「覚悟」という言葉を使わせた。ワールドカップ開催国としてアジア予選を免除されていたトルシエ監督は、ある意味で1999年及び2000年の前半におけるA代表の結果を度外視することが可能だった。

 日本代表チームの戦績を振り返れば、1999年はわずか7試合しか国際Aマッチが組まれていない。しかも、結果は4分け3敗と1992年以降では唯一の未勝利に終わっている。2000年の前半で勝利したのも、すべて格下のシンガポール、ブルネイ、マカオ各代表戦だけだった。

 その間に何をしていたのか。答えはくしくも、森保監督が就任会見で目標にすえた「世代交代」と「世代間の融合」だった。トルシエ監督はまず、JFAとの契約に含まれていなかったU-20代表監督を無報酬で引き受け、今も「黄金世代」と呼ばれる1979年生まれのホープたちを指導した。

 司令塔・小野伸二を中心とする「黄金世代」は、1999年3月にナイジェリアで開催されたワールドユース選手権(現FIFA・U-20ワールドカップ)で準優勝という、日本サッカー界初の快挙を達成。主力選手たちはシドニー五輪を目指すU-22代表に引き上げられた。

 シドニー五輪世代には、A代表でもすでに中心を担っていた中田英寿、黄金の左足をいよいよ輝かせようとしていた中村俊輔らが君臨していた。2つの世代が融合された結果、アジア予選を文字通りの無双で勝ち抜くスーパーチームを生み出す。

 迎えたシドニー五輪でもベスト8へ進出。満を持してA代表が強化され、2年後のワールドカップ日韓共催大会で史上初のベスト16進出を果たした主力組の中でDF宮本恒靖、中田浩二、松田直樹、MF稲本潤一、明神智和、中田英、FW柳沢敦の7人がシドニー五輪にも出場している。

 このうち中田浩と稲本はワールドユース組であり、さらにナイジェリアの地で快挙を達成しながらシドニー五輪代表からは漏れてしまった小野と小笠原満男も、2002年の代表メンバーに名前を連ねている。文字通りの「世代間の融合」が「世代交代」を加速させていった。

 しかし、トルシエ監督が描いた理想的な軌跡を森保監督がなぞることはまずできない。東京五輪へは開催国としてアジア予選なしで出場できるが、海外遠征などを含めた強化スケジュールは原則として、J1が中断する国際Aマッチデーの中で組まれていく。

 選手たちにかかる負担を軽減する目的もあり、国際サッカー連盟(FIFA)が国際Aマッチデーを削減して久しい。今現在は3月、6月、9月、10月、11月にそれぞれ10日前後が設けられているだけで、しかも来年中にはカタール大会出場をかけたワールドカップ・アジア予選も始まると見られている。

 一方でA代表が置かれた状況を見れば、ロシア大会に臨む23人のメンバーが発表された5月30日時点の平均年齢28.17歳は史上最高齢に達していた。4月に慌ただしく就任した西野朗監督が、準備期間が極めて限られていたこともあり、経験と実績を何よりも重視して選手を選考したからだ。

 しかも、2大会ぶり3度目の決勝トーナメント進出を果たしたメンバーからMF本田圭佑、8年間にわたってキャプテンを務めてきたMF長谷部誠が代表引退を表明。左右のサイドバックとしてプレーできる酒井高徳も、27歳の若さで自ら代表に別れを告げた。

 ロシア大会で主力を担った選手たちの中における最年少は、鹿島アントラーズから選出されたただ一人の国内組、25歳のDF昌子源だけだった。大会を通して株を上げた昌子も、4年後は29歳。一刻も早く世代交代を進めなければ成長は望めない、まさに待ったなしの状況に直面していた。

 JFAの田嶋会長も「兼任に対しては技術委員会でも多くの議論があったと聞いています」と、トルシエ監督の時とは状況が異なることを認識している。それでも森保監督に兼任の激務を託した最大の理由を、記者会見の席で世代交代に求めている。

「世代交代を実現するためには、2つの代表監督を兼ねている方がよりスムーズにいく。そうしたメリットがあるということと、チャレンジをするのに相応しい人材がこの森保監督であることを彼自身とも確認して、正式に契約書にサインするに至りました」

 ただ、来年中には遅かれ早かれ、体が2つなければ兼任することができない状況が訪れる。だからこそ、JFA及び日本サッカー界全体によるサポートが必要だという切実な思いも込めて、森保監督は晴れの席では異例にも聞こえる「不可能」という言葉を口にしている。

「東京五輪の監督だけでも重責だとこれまでも重々感じてきましたが、さらにA代表の監督も兼任することが自分にできるのかと。自分一人で務めるのであれば不可能なことだと思いますが、日本サッカー界を支えてくださる多くの方々の力をお借りしながらチームを作っていけば不可能が可能に変わり、2つの代表チームを同時に見ていくことが、日本サッカー界にとって大きな成果につながると今では思っています。嬉しいなどといった思いは正直、いっさい浮かびませんでした。大変なことをやらなければいけない、しかし覚悟を持ってやれば成し遂げられると思い、引き受けさせていただきました」

ドーハの悲劇もピッチ上で経験
「あれ以上に悲しい思いはない」

 森保監督は日本が3位に入って五輪史上で唯一となるメダルを獲得した、メキシコ大会が開催された1968年に産声をあげている。開催国としてメダルが期待される東京五輪へ向けて運命的なものを感じさせるが、もうひとつ、日本サッカー界に携わる人間の中でも特異な悲しみを味わわされている。

 今から四半世紀前の1993年10月28日。後半終了間際に喫した失点とともに悲願のワールドカップ初出場を逃した「ドーハの悲劇」をピッチ上で、まさに当事者として経験している。そのドーハを首都とするカタールで開催されるワールドカップを、監督として目指していく使命をも背負った。

「私自身、あれ以上に悲しい思いをすることは、恐らくないだろうと思っています」

 東京五輪代表監督に就任した昨秋に、森保氏は「ドーハの悲劇」におもむろに言及している。当時は25歳。長崎日大高校からサンフレッチェ広島の前身、マツダに加入して7年目で、コツコツと積み重ねた努力によって、無名の存在から代表に欠かせない、主役を輝かせる黒子の地位を確立していた。

「夢が目の前まで実現できそうな思いを抱えながらピッチの上にいて、それでも最後の最後に守りに入ってしまえばやられるんだ、という経験でした」

 2枠しかなかったワールドカップ・アメリカ大会出場をかけた、アジア最終予選へ勝ち進んだのは6ヵ国。2週間で5試合を戦う強行日程の中で、オランダ人のハンス・オフト監督に率いられた日本はサウジアラビア代表との初戦を引き分け、イラン代表との第2戦では黒星を喫した。

 この時点で最下位に転落したが、エースストライカーのカズ(三浦知良)の活躍で北朝鮮代表、韓国代表に連勝して首位に浮上。イラク代表との最終戦に勝てば、他の2会場の結果に関係なくワールドカップ出場を決められる状況で運命のキックオフを迎えた。

 開始早々の5分にカズの3試合連続ゴールで先制したが、テクニックが非常に高く、運動量も多く、球際の攻防にも強いイラクに後半10分に同点とされる。FW中山雅史のゴールで同24分に勝ち越したものの、その後もイラクに主導権を握られる展開が続いた。

 そして、時計の針が45分を指す直前にイラクが右コーナーキックを獲得する。時間がない状況でイラクが選択したのはショートコーナー。慌ててマークにいったカズがフェイントであっさりとかわされ、上げられたクロスにFWオムラム・サムランが頭を合わせる。

 ゴールの左隅にゆっくりとボールが吸い込まれるシーンを巻き返してみると、カズが懸命に伸ばした右足の先をクロスがかすめた直後に、ボランチとしてフル出場していた森保監督も必死にジャンプ。頭でクロスを防ごうとしたが、ほんの数センチ届かなかった。

 同点とされた直後に何人かの日本の選手がピッチに倒れ込む、あまりにも残酷な光景。当事者の一人である森保監督が悔やんだのはショートコーナーに対する守備以上に、イラクがかけてくるプレッシャーの前に、中盤や最終ラインがずるずると後退してしまったことだ。

 カズや司令塔のラモス瑠偉、途中からピッチに入ったFW武田修宏ら攻撃陣は3点目を奪おうと前へいった。結果として全体が間延びしてしまい、カウンターを浴びた時には防戦一方となった。体力的な限界も手伝って、相手へプレッシャーをかけられる選手は誰もいなかった。

「守備はもちろん大切ですが、守ることだけを考えて、ボールを奪うことを考えていなければ、それは守備にはならない。そういうところがイラク戦の最後の局面で出ていたと今では思っています。いろいろなプレッシャーの中でプレーしましたが、逆にすべてをポジティブに考えることができるようになった経験でした。どん底とか、心が折れそうになるとか、実際に折れてしまったこともあるかもしれないけれども、それでも選手としてさらに成長し続けていかなければいけないと教えてもらった経験でもあると今では思っています」

 最終的にはサウジアラビアと、自力出場の可能性が断たれていた韓国がアメリカ行きの切符を手にした。1993年10月28日以降のサッカー人生における羅針盤が、今も忘れられない「ドーハの悲劇」によって大きく変わったと森保氏は今では位置づけている。

ボランティアの精神でサッカーを
教えている方々への「感謝」も忘れない

 四半世紀前の苦い教訓を介して、結果を残さなければ何も得られないという、勝負の世界の非情な掟を骨の髄まで叩き込まれた。惜しかった、よく頑張ったと称賛されるのは一瞬だけ。西野ジャパンのコーチとして臨んだ、先のワールドカップ・ロシア大会でも手土産は悔しさと無念さだった。

 ゆえに細部にとことんこだわる姿勢も、A代表監督の就任会見の席上で力を込めた「覚悟」の中に含まれている。目指していくサッカーを問われた森保監督は、決して派手なスタイル一辺倒となるのではなく、時にはつまらない、退屈だと映る試合も厭わないと実質的に宣言している。

「攻撃は速攻もできれば遅攻もできる、ということ。守備ではハイプレッシャーもかけることができれば、自陣(に引くこと)で相手に思うようなことをさせないサッカーもできればと思います。何を言いたいのかというと、いろいろな対応力をもって戦うということ。臨機応変に状況に応じながら勝つために、流れをつかむことを選手が判断して、選択できるサッカーをしていきたいと思います」

 ベガルタ仙台でプレーした2003シーズン限りで現役を退いた後は、指導者の道へ転じた。古巣サンフレッチェの強化部育成巡回コーチに就き、翌2005年からはJFAのナショナルコーチングスタッフも兼任し、トレセンコーチとして中国地域を担当した。

 サンフレッチェのトップチームのコーチに就任するまでの3年間で、日本代表を頂点にいただくピラミッドに例えれば底辺の部分に当たる、いわゆるグラスルーツに関わった特異な経験は、就任会見で言及したもうひとつの思いである「感謝」の源泉になっている。

「プロとしてお金をもらってサッカーを教えている方はほんのごくわずかで、ほとんどが他に仕事も家庭もあり、自分のチームの選手を見ながらトレセン活動や選抜活動に携わっている。ボランティアの精神で、自己犠牲を払ってでも選手を育ててくださっている方々の努力があって、私が仕事をさせていただいている日本代表や東京五輪の代表へ、素晴らしい選手を送り込んでいただいている。そこを忘れてはいけないし、そういう方々の気持ちも背負って戦っていくことを肝に銘じていきたい」

 ワールドカップはおろか五輪にも長く無縁だった日本サッカー界の冬の時代を懸命に支え、日本では無理とされたプロ化を実現させた先達たちへの感謝の思いももちろん忘れていない。日本人だからこそ胸中に抱くに至った「覚悟」と「感謝」を強みに変えながら、東京五輪世代のU-21代表が臨む8月14日開幕のアジア競技大会(インドネシア)から、森保監督は二刀流への挑戦をスタートさせる。


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

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