このページの本文へ

前へ 1 2 3 4 次へ

『新装版 計算機屋かく戦えり【電子版特別収録付き】』刊行記念 第1回

FUJIC/日本最初のコンピュータを一人で創り上げた男──岡崎文次

2016年08月23日 09時00分更新

文● 遠藤諭(角川アスキー総合研究所)

  • この記事をはてなブックマークに追加
  • 本文印刷

FUJICのその後の運命

 さて、7年の歳月をかけて完成したFUJICだったが、富士写真フイルムで稼働したのはわずか2年半だった。仕事を終えたFUJICは、早稲田大学に寄贈されてしまった。

――引退はマシンが消耗したとか、もっと高機能のマシンが導入されたとかいうのが原因だったのですか?

「いや、いや。そういうことじゃなくてね。何ていいますか……会社の方針が変わった。富士写真フイルムでは、レンズの設計を直接にはやらないことになっちゃったんです。だから、もう、FUJICは、いらなくなっちゃったんです」

 こう語る岡崎氏の言葉は、FUJICが、十分に実用に供することのできたマシンだったという自信と、それとはうらはらにFUJICがたどることになった運命に対する嘆息が入り交じった微妙な調子だった。

 その後、岡崎氏は富士写真フイルムを退社して日本電気に転職する。日本電気ではソフトウェア開発に従事。日本電気を1972年に定年退職してからは専修大学経営学部で教壇に立ち、1984年に退職するまでコンピュータについての講義を続けた。

――最近のコンピュータの開発状況について感じられることはありますか?

「電子計算機の初期の研究者は、ハードのこと、ソフトのこと、アプリケーションのこと、全部を考えて仕事を進めていました。それに対して、最近の若い人々は、計算機の仕事をしていても、枝の先の一枚の葉を担当させられることが多くて、ちょっとかわいそうな感じ、さびしい感じを受けますね」

 最後に岡崎氏に「ご趣味は?」と質問をしてみた。返ってきた答えは、青年時代から続けているという「日本式ローマ字運動」。「日本の子どもたちは漢字を覚えることにものすごい労力を割いているため時間をムダにしており、習ったとおりに書かねばならないため創造力が養われない」という持論を持つ。「日本式ローマ字」といういかにも合理的な運動に関わり合いながら、その根底に人間の創造性を深く追求している岡崎氏の強い姿勢が印象に残った。

 人間くささと合理思想をあわせ持った研究者。日本最初のコンピュータを開発した男、岡崎文次氏はそんな人物だった。

 日本では、この後、パラメーター励振回路を利用した純国産素子パラメトロンによる計算機が作られ、脚光を浴びる。そのため、FUJICは日本で事実上唯一の真空管による第一世代コンピュータとなった。

 実は、第2世代のトランジスタコンピュータへの利用の試みは1956年時点ですでに行なわれており、FUJICが誕生した時期には第2世代がはじまりつつあった。日本でも商工省工業技術庁電気試験所の「ETL MarkⅢ」がFUJICの4ヵ月後、7月に動きはじめている。しかし、一方では、FUJICが完成する前年の1955年まで、ENIACが実用に供されていたという事実があり、真空管コンピュータが旧式の機械になったのは1960年代の中頃であったともいわれる。このころの開発サイクルは、今日のコンピュータしか知らない世代には想像もつかないほどに長かったのだ。

 ところで、初期のコンピュータの開発競争でアメリカに劣らず進んでいたのはイギリスである。暗号解読機「COLOSSUS」は汎用目的ではなかったものの、ENIACよりも先に実用的なシステムとして完成されていた。1954年には、純然たる商用目的のためにJ・リヨンスという食品会社が「LEO」というコンピュータを稼働させている。LEOは、J・リヨンスが支援したケンブリッジ大のEDSACを自社の事務処理のためにリメイクして作ったものだった。FUJICが富士写真フイルムで稼働したのは、このLEOから二年後のこと。商用目的という観点からいえば、FUJICの開発スタートは、世界最初期の計画の一つだったのは間違いない。

 このインタビューシリーズを単行本にまとめるにあたって、日本の最初期のコンピュータ研究者の一人である和田英一氏(現富士通研究所常任顧問)と上野の国立科学博物館に保存されているFUJICを見学にでかける機会を得た。現在のFUJICは博物館の収蔵庫に納められており、残念ながらいまは動く状態にない。

 静かに眠るFUJICは二間の壁を覆うほどの大きさだった。まず全体をながめ、細部の機構を見る。細部を見ていくにつれて、これを作った岡崎氏という研究者のたぐいまれな才能を肌で感じることともなった。岡崎氏の言葉だけからは、真空管などの基本的なデバイスを除いてすべてが「まったく独自の設計」であり「ほとんど手作り」であるということのすごさを、真には理解できていなかったのだ。

 日本最初のコンピュータは、すでにブラウン管に文字を表示していたし、輸入品のタイプライターのキーを針金で下から引っ張る、信じられないようなギミックで文字を印刷していた。岡崎氏が生まれてはじめて引いた図面から作り上げたというカードリーダは光学式の読み取りで、穴の位置からフォトセルまでは曲げたガラス棒で光を導いていた。いうまでもなく、これは光ファイバーと同じカラクリである。直径100ミリ、長さ1450ミリの超音波ディレーラインのタンクも、数字だけ、言葉だけではそれほどでもない装置だが、これを一から作り上げることが容易でないことはひと目でわかるような代物である。

 岡崎氏はこれら各部機構を手作りするとともに、当時最大のネックだった真空管の安定性を、「数を抑えること」「作動させる電圧をギリギリまで下げること」「接点をハンダ付けしてしまうこと」という3つの方策で克服したのだった。これらの方法はどれも誰もが思いつきそうで思いつかない、いかにも岡崎氏らしいあっけらかんとした方法ではないか。特に真空管の数を減らすことに関しては、これも一言で片付けてしまいがちだが、きわめて緻密なハードウェア的、ソフトウェア的な取り組みが必要となる。そこに平然とアプローチしてやってのけたのが、岡崎氏のFUJIC開発であるといえるだろう。

 コンピュータは、高度な回路設計とそれを機械として実現するための技術が、バランスよく提供されることではじめて動くものだった。コンピュータは、頭でっかちでも、腕力だけでも、決して動くことはないということでもある。

 FUJICは、当時の電子技術がどのような性質のものであったかを体現した日本最初のコンピュータにふさわしいすばらしいシステムだった。

日本初のコンピュータ「FUJIC」
 海外からの技術導入に頼らず、この分野では素人だった岡崎文次氏が独自の研究により開発させた画期的なマシンだ。メモリの水銀タンクは裏面に置かれている。

FUJICのスペック 参考資料:「わが国初めての電子計算機 FUJIC」/岡崎文次/(社)情報処理学会

現在のFUJIC

FUJICの出力装置。電動タイプライターのひとつひとつのキーがワイヤーでつながっており、1文字ずつ逐次タイプした。(国立科学博物館収蔵庫)

FUJICのディスプレイ。32×33のドットで32語表示できた。(国立科学博物館収蔵庫)

岡崎文次氏とインタビュー中の筆者。

『新装版 計算機屋かく戦えり【電子版特別収録付き】』の内容

・日本最初のコンピュータ……岡崎文次
・日本独自のコンピュータ素子……後藤英一
・コンピュータの基礎理論……榛澤正男
・コンピュータと日本の未来……喜安善市
・トランジスタの重要性……和田弘
・国産コンピュータの頂点と池田敏雄……山本卓眞
・機械式計算機のルーツ……内山昭
・世界を制覇したヘンミ計算尺……大倉健司
・日本外務省の超難解暗号機……長田順行
・タイガー計算器……村山武義
・弾道計算用機械式アナログ計算機……更田正彦
・コンピュータ研究と阪大計算機……牧之内三郎
・最大規模の国家プロジェクト……村田健郎
・巨大コンピュータに挑戦した三田繁……八木基
・二進法と塩川新助……岸本行雄
・数値計算……宇野利雄
・プログラミング言語とコンピュータ教育……森口繁一
・国産オペレーティングシステム……高橋延匡
・オンラインシステム……南澤宣郎
・電子交換機……秋山稔
・電子立国と若き官僚……平松守彦
・IBM側の証人……安藤馨
・リレー式計算機とカシオミニ……樫尾幸雄
・トランジスタ式から薄型電卓……浅田篤
・世界初のマイクロプロセッサ……嶋正利
・LSIと液晶……佐々木正
・特別収録 微分解析機再生プロジェクトをめぐって 和田英一氏に聞く

【筆者近況】遠藤諭(えんどう さとし)

株式会社角川アスキー総合研究所 取締役主席研究員。元『月刊アスキー』編集長。現在は、ネットデジタル時代のライフスタイルやトレンドに関する調査・コンサルティングのほか、テレビ・新聞等で解説・執筆、関連する委員会やイベント等での委員・審査員などを務める。著書に『ソーシャルネイティブの時代』(アスキー新書)など多数。『週刊アスキー』で“神は雲の中にあられる”を連載中。

■関連サイト

■関連サイト

前へ 1 2 3 4 次へ

カテゴリートップへ

この連載の記事

アスキー・ビジネスセレクション

ASCII.jp ビジネスヘッドライン

ピックアップ