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高橋幸治のデジタルカルチャー斜め読み 第22回

VRが盛り上がり始めると現実に疑問を抱かざるをえない

2016年05月10日 09時00分更新

文● 高橋幸治、編集●ASCII.jp

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現実と模倣、リアルとバーチャルの境界は極めて曖昧

 ことほどさように、テクノロジーとメディアの歴史は「身体と感覚の拡張」の歴史であり、人間は常に「いま、ここ」とは異なるVirtual Realityを追い求めてきたのではないか? ということは2016年=VR元年を待つまでもなく、私たちの周囲にはすでにさまざまなリアリティーが展開されており、ヘッドマウントディスプレーを装着せずとも、私たちは無意識裡のうちに複数の現実をかなり器用に行き来していると言える。

 1980年代的なポストモダンの言説を蒸し返すようでいささか気恥ずかしい気もするが、実際、私たちは美しい海に潜って珊瑚礁に群れる魚たちを目の当たりにしたときに「うわぁ、水族館みたい!」といった倒錯した感想を漏らす。南の島などに行って夜空に輝く美しい星々を眺めたときには「うわぁ、プラネタリウムみたい!」という陳腐な表現を用いてしまう。現実と模倣、リアルとバーチャルの境界が極めて曖昧な世界に生きている。

Photo by Rian Castillo「georgia aquarium」

 これはVRのソフトウェア的な側面を考える上で重要な問題である。

 場合によってはあまりにもリアルであることが逆に不気味でさえあり、ほどよく歪曲されたリアルではないもののほうがむしろ安心できるというケースも少なくない。

 アンドロイドや3D CG、さらには人形などにおける「不気味の谷現象」がその好例だろう。不気味の谷とは人間ではないキャラクターが人間的な特徴=リアリティーを獲得していく途上で、突然、微笑ましさよりも気味の悪さが優勢になる地点のことをいう。

 しかし、その不気味の谷を超えてさらにリアリティーを増加させていくと、嫌悪感は再び好感度に変転する。つまり完璧なまでにリアルか、さもなければ適度にデフォルメされているくらいがちょうどいいのだ。

 第2次世界大戦中と大戦直後の2度、英国の首相をつとめたウィンストン・チャーチルも「リアルであること」に戸惑いを示した一人である。

 1954年、英国議会は彼の長年に渡る功績を讃えるためチャーチルの80歳の誕生日に当代随一の肖像画家グラハム・サザーランドの手によるポートレートを贈呈した。しかし、チャーチルはそこに生々しく描かれた老いた自分のリアルな姿に不快感を抱いたという。

 往々にして人間が要求する理想は、忠実な現実の再現とは限らないのだ。

 ちなみに、チャーチルがこの絵の持つリアリティーに苦しめられ続けていたことを知る夫人は、1965年に夫が死去する直前、文化財ともいえるこの肖像画を焼却処分にしてしまった。

Image from Amazon.co.jp
ジョセフ・L・サックス『「レンブラント」でダーツ遊びとは―文化的遺産と公の権利』(岩波書店)。チャーチルの肖像画にまつわる記述はこの本に詳しい

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