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25年前からTCP/IPとインターネットやってきた先輩に話聞いてみない?

西麻布のバーでNTT Comの宮川エバに聞いたテッキーなお話

2015年03月25日 16時00分更新

文● 大谷イビサ/TECH.ASCII.jp 写真●曽根田元

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村井氏のNTT批判に疑問を持ち、あえてNTTに入社する

 こうしてインターネットに進んでいた1994年当時、宮川さんはWIDEプロジェクトの村井純氏が展開していたNTT批判に疑問を感じていたという。1.5Mbpsの専用線が数十万円した時代、当時の村井氏は通信自由化前のNTTの回線が高価で、インターネット普及の障害になっていることを舌鋒鋭く批判していた。

「今でこそ、NTTとも仲良くやってもらっていますが、当時の村井さんのNTT批判はすごかった。確かにそれまでの電話会社はインターネットを目の敵にしているところがあったし、回線も高かった。でも、ちょっと待てよ。全国にインターネットを引くのが僕らの目的だったら、それを実行できる能力のある会社ってNTTしかない。だったら、誰かNTTに入って、インターネットやったほうがいいんじゃない?とわりと気楽に思ったんです」

 こうして1995年に博士課程を終え、社会人になろうとしていた宮川さんは、あまつさえインターネット普及の障害とさえ言われていたNTTへの入社を目論む。調べてみると、ソフトウェア研究所の後藤滋樹氏(現早稲田大学教授/JPNIC理事長)を中心に、NTTは当時からインターネットについてもちゃんと研究・開発を進めていた。

 UNIXのコードをハッキングし、東京女子大のインターネット化を進めてきた学生時代を面接官に説明したのが功を奏したのか、NTTは宮川さんを雇用。こうして宮川さんは1995年に新卒としてNTTに入社し、当時のソフトウェア研究所に配属される。しかし、宮川さんのNTT入社は、当然ながらインターネット界隈の村井氏や山口氏の耳に入ることになる。

「ある時、初台に移っていたアスキーのUNIX magazine編集部に顔出したら、山口英先生が来てるけど、編集長と外にご飯食べに行ったという話だった。そこで、山口先生に『僕、NTTに行くことにしました』というメモを残していったら、2時間後くらいにメモを読んだ山口先生が、地下でやってたBSD 256倍の編集会議の途中にいきなり入ってきた。会議室から引きずり出され、『お前、NTT行くとはなにごとだ』と怒鳴られた。そこからアスキー社の地下室で3時間膝詰めで説教ですよ(笑)」

「山口先生からは地下室で3時間、膝詰めで説教ですよ(笑)」

「村井さんからもNTTなんてやめろと言われたけど、日本全国津々浦々インターネットを引くためには、やはりNTTの力がいる、誰かがNTTに入って、インターネットをやったほうがいいと思うという話を力説しました。村井先生もその話を聞いたら、黙ってしまった。そして、『その言葉、忘れんじゃないぞ』と行ってしまった」

hitomiのライブ中継とインターネットマルチフィードとの関係は?

 こうしてNTTのソフトウェア研究所に入った宮川さん。入ってみると、NTTの中にもインターネットについて真剣に考えている人が数多くおり、こうした仲間と共に、インターネット技術の研究開発に没頭できたという。そんな中、1996年に宮川氏が携わったのは、のちに商用IXであるJPNAPを開始することになるインターネットマルチフィードの創設だ。

「ある時、NTTグループの広告宣伝関係を取り扱うNTTアドの人がやってきて、インターネットでライブ中継したいと言い出した。ライブはCandy Girlという曲がヒットしていたhitomiさんの恵比寿コンサート。しかも司会はハイパーメディアクリエイターの高城剛さん。でも、その前にやってたローリングストーンズのライブ中継が混んでいて全然観られなかった。だから混んでるポイントを通り抜けて、直接ISPに多地点でぶち込めば、よく見えるはずだと考えたんです。こうしてできたのが、今のCDN(Contents Delivery Network)の原型とも言えるインターネットマルチフィードです」

「実はマルチフィードというのも僕が名付け親。司会の高城さんが言う『今日は中継が3倍速いぞ!なぜならNTTの開発した●●技術を使っているからだー』の台詞の●●をマルチフィードにしようと提案したのが僕だからです」

 おりしも1996年は、NTTが全家庭のインターネット接続を目指してISPサービス「OCN」を立ち上げた年で、その後1999年には「iモード」のサービスも開始される。こうしたインターネットへの注力を見て、当初NTT入りに難色を示していた村井さんも、少しずつ軟化してきたという。

「ある時、村井さんがうちの細谷僚一所長(現:インターネットマルチフィード 副社長)に会いに来てくれることになりました。時間をとってくれと言われたのでアポを入れると、村井さんは所長に対して開口一番『うちの宮川がお世話になっております』ときました。普通は逆だろうと(笑)」

シリコンバレーで拡がる宮川さんのインターネット人脈

 1997年の初頭、宮川さんはできたばかりのNTTのシリコンバレーの研究所(当時:NTT Multimedia Communications Laboratories)に行くことになる。しかも2人の偉人がアドバイザリーとして宮川さんに付くことになった。1人はゼロックスパロアルト研究所からシスコに移っていたスティーブ・ディアリング氏。ディアリング氏は、マルチキャストの発明者であり、 IPv6の原型を作った人としても知られている。2人目はRAIDの開発者として有名なUC Barkeley(カリフォルニア大学バークレー校)のランディ・カッツ氏。ほかにも多くの第一級のリサーチャー/エンジニアのサポートの元、宮川さんは特にIPv6関連の技術研究・開発にいそしむことになる。

「あるときスティーブがシリコンバレーの280号線という高速道路を越えたところにきれいな山があるから、いっしょにハイキングしようと言うんです。もともと彼はハイキングが好きなんだけど、1人だけだとつまらないからと他の人を誘っていた。日曜日の朝7時にスティーブの家の前に集まって、1時間半くらい山の中を歩いて、メンロパークのカルトレインの駅前にある『Cafe Borrone』で朝食をとる。トーストとスクランブルエッグ、ソーセージ、カフェラテ。で、10時くらいにスティーブとさよならするという感じでした。ちなみにCafe Borroneは今もありますよ」

「これがのちにSilicon Valley Sunday Morning Crazy Hiking Clubという名前が付くんですが、誘われた人はみんな最初の1回しか行かない。日曜日の朝7時にハイキングはきついし、やっぱり寝たいしね。でも、僕はそれにずーっと付き合った。で、歩いている間にMobileIPやIPv6の設計はなぜああなったのかなどという話を聞いていたんです」

 こうしたハイキングでのディスカッションで生まれたのが、IPv6のScopeIDだ。IPv6のアドレスは、リンクローカルアドレスのあとに「%インターフェイス」が付けられる。この仕様もスティーブ氏と宮川さんが議論を繰り返し、日本でのWIDEの仲間、特に伝説的なKAMEプロジェクトの面々とも協力してRFCに持ち込まれた内容だという。

「あるときはIPv6でISPやるにはどういう設計がよいかということを具体的に検討していたんです。IPv4のPPPってアドレスを1つだけ渡して、NATで背後を接続する仕様だけど、IPv6ってエンドツーエンドの通信を保つため、NATはしてはいけない。だからPPPでIPアドレスを渡す以外に、あるアドレス空間をまとめてルーターに教えてあげる必要があるんです。それをスティーブに話して、議論を重ねた数週間後、Cafe Borroneで次のIETFでそれを提案してくれと言ってくれたんです」

「アドレス空間をまとめてルーターに教えてあげる仕組みが必要だったんです」

 実は、このIETFでの提案が、宮川さんのプレゼンテーションデビュー。英語も上手じゃなく、若造を拒む空気も合った中、なんとかやりとげた。DHCPワーキンググループ議長のラルフ・ドルムス氏のサポートもあり、できたアドレス空間通知の仕組みが、IPv6のPrefix Delegation(RFC3769)だ。オーレ・トロン氏(現シスコ)がまとめたアンサーRFCであり、DHCPv6 PDを使ってアドレスを渡すという仕組み(RFC3633)は世界中で使われている。

 こうして基礎研究を続け、NTT自体もインターネットに本気で取り組んでいた1990年代後半。1999年にNTTが分社化され、宮川さんの所属もNTTコミュニケーションズに移ったが、同社はTier1プロバイダーの買収やグローバルバックボーンの構築、そして国内最大規模に成長したOCNビジネスなど、インターネットカンパニーとして拡大を続ける。結局、宮川さんは2002年に日本に戻ってきたが、そのときのシリコンバレーの人脈は以降の彼の活躍を陰に陽に支えていくことになる。

(次ページ、キャリアグレードNATはIPv6を見限ったわけではない)


 

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