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ロードマップでわかる!当世プロセッサー事情 第287回

スーパーコンピューターの系譜 パーツ構成を変えて長年運用したASCI Red

2015年01月19日 12時00分更新

文● 大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/

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 今回はASCIシリーズの第1弾であるASCI Redを解説する。前回、CTBT(包括的核実験禁止条約)の話を1995年11月から始めたが、実際には1992年あたりからその動きは始まっていた。

ASCI Red

 具体的にはブッシュ(父)政権の際に、1994年度以降は核実験を行なわないことを政治決断したあたりから、CTBTの動きが明確になっていた。このため、完全な核実験は1992年9月23日にネバダ州で行なわれたのが最後である。それゆえに、1995年にCTBT批准を明らかにする前から、DoE(米エネルギー省)では規定路線となっていた。

 こうした状況を背景に、1995年1月にニューメキシコ州のサンタフェにあるBishop's LodgeというホテルでDoEの関係するメンバーに加え、ローレンス・リバモア、ロスアラモス、サンディアの3つの国立研究所のメンバーも集めて、ASCIの初期戦略ミーティングが開催される。

 ずいぶんこのミーティングは紛糾したらしいのだが、最終的にDoEでASCIのアーキテクトのポジションについていたGil Weigand博士が、ASCIの最初のプラットフォームであるASCI Redは超並列コンピューターで行くことと、そのシステムがアルバカーキ(ニューメキシコ州)にあるサンディア国立研究所の施設に設置することを宣言した。

 もともとサンディア国立研究所はインテルのParagonを導入(関連記事)しており、超並列コンピューターにはある程度慣れているということも関係していた。当時ローレンス・リバモア国立研究所とロスアラモス国立研究所はまだCRAYベースのベクトルマシンを利用していたからである。

 一度方針が決まると後は早い。この時点でのASCI Redのターゲットは1TFLOPSであった。すでにインテルのParagonはサンディア国立研究所に設置していたマシンで143GFLOPSを、富士通が航空宇宙技術研究所に納入したNWT(Numerical Wind Tunnel:数値風洞)が170GFLOPSをそれぞれ記録していたものの、1TFLPOSにはまだだいぶ遠かった。

 ASCI Redでは一足飛びにこれを実現しよう、というある意味意欲的な計画だったが、そのくらい背伸びをしないとASCIの“Accelerated”にはならない、ということだったのかもしれない。

iPSCやTouchstoneを手がけた部隊が
ASCI Redの開発に携わる

 1996年度の予算のうち1500万ドルがASCI Redのために確保されるとともに、1995年4月にはASCI Redの提案依頼書のドラフトも公開された。同年5月にはメーカーからの提案の評価が始まり、6月8日と9日にメーカーを交えての審議も行なわれた後で、インテルがASCI Redの契約者として選ばれることになった。最終的にDoEはインテルと9月7日に契約を交わしている。

 ASCI Redは9216プロセッサーと640基のHDD、1540の電源ユニット、それに616のインターコネクション装置から構成されることになる。左下の画像はASCI Redのイメージ図で、右下の画像が実際の装置写真である。おおよその設置面積は1600平方フィートで、当時の資料によれば「バスケットコートの3分の1」とされた。

これはサンディア国立研究所のウェブサイトに掲載されていた、ASCI Redのシステム図のイメージである。大雑把に4列のシステムで構成される

これはサンディア国立研究所で運用を開始した直後(1997年6月)の写真。出典はAlex R. Larzelere IIの“Delivering Insight:The History of the Accelerated Strategic Computing Initiative (ASCI)”より。膨大といえば膨大なのだが、昨今の巨大なHPCシステムを見慣れた目にはこじんまりと写る

 この契約を受けてインテルで作業を担当したのは、Justin Rattner率いるSSL(Scalable Server Laboratory)である。

 SSLはその後SSD(Scalable System Division)と名前を変えたという話は連載282回で説明したが、要するにiPSCやTouchstoneを手がけていた部隊がそのままこれに携わることになった。

これは2006年にASCI Redの運用を停止したときの記念式典での写真。左はサンディア国立研究所のコンピューターデザイナーだったJim Tomkins、中央がおなじみJustin Rattner、その右にいるのは当時インテルのHPC部門のシニアディレクターだったStephen Wheat博士。出典はサンディア国立研究所

 ここからのインテルの作業は早かった。契約から約1年後になる1996年10月7日、部分的に納入したシステム(11キャビネット分)だけを稼動し、208GFLOPSを記録する。

 その後も納入分の追加にあわせて性能を高めていき、1996年11月22日には327GFLOPSを達成する。1996年12月4日にはシステム納入前のインテルの施設でのテストで1TFLOPSを超えたことが確認された。

 翌1997年6月のTOP500では、7264コア(おおよそ35キャビネット分)を使い、1068.0GFLOPSのスコアを出して、堂々トップとなる(関連リンク)。ちなみにこの1997年6月のリストで2位に入ったのは筑波大学計算科学研究センターのCP-PACS/2048であるが、性能は368.2GFLOPSでASCI Redの3分の1程度でしかない。

 ただ、そのCP-PACS/2048も1996年11月には1位だったわけで、いかにASCI Redが大幅に性能を改善したのかが、わかろうというものだ。ちなみにそのTOP500リストが出た直後の1997年6月12日には、全キャビネットの納入が完了、フルシステムで1.338TFLOPSという性能を叩き出して、運用開始となっている。

(→次ページヘ続く 「ASCI Redの内部構造」)

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