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ロードマップでわかる!当世プロセッサー事情 第281回

スーパーコンピューターの系譜 経営陣の迷走に振り回されたCM-5

2014年12月01日 12時00分更新

文● 大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/

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DAPRAからの支援カットが致命傷

 コマーシャルビデオまで作り、CM-5は多くの大学教授や研究者に売り込むつもりだったが、実際にはそううまく行かなかった。CM-5の1号機は1993年4月にNCAR(National Center for Atmospheric Research:アメリカ大気研究センター)に納入されているが、32node構成のCM-5の価格は本体のみで147万ドルであった。

 node1つあたり4万6000ドルという計算で、さすがにこれは異様に高い。ちなみにこの1号機は事実上DAPRAが支払ったらしい。これだけ高いと、さすがに購入できるところは限られてくる。

 前回、なぜかDAPRAがThinking Machinesに肩入れしていることに触れたが、HPCCプログラムに関してもこれは言える。

 HPCCプログラムは1996年に1TFLOPSのマシンを完成させるというものだが、Thinking Machinesはこれに先駆け1992年までにスケールダウン版のマシンを完成させることを約束し、初期契約費として1200万ドルが早い段階で支払われた。

 この資金を元に順調に開発が進んだかといえばさにあらず。HPCCプログラムは公式には1991年に開始されたが、それより先に水面下でこうした話は出ており、さまざまななコンピューターメーカーがHPCCプログラムに向けたシステム開発に余念がなかった。

 そこで多くのメーカーが、自社でプロセッサーから開発するのではなく、IntelやSPARCといった他社から汎用プロセッサーを入手、これをベースに超並列構成を構築する道を選んだが、同社はCM-1/2の1bitプロセッサーを捨てSPARCにするという決断が下されたのは、他社と比べて18ヵ月は遅かったらしい。

 そこから急速にシステムを組み上げた技術力はたいしたものだという気もするが、完成したマシンをどこかに売るというビジネスモデルの構築は最後まで成功しなかった。

 というのは、科学技術計算向けはビジネスのボリュームがそう大きくなかった(今も大きいとはいえない)からだ。そこで、大規模データベースでのデータマイニングに目を向けるものの、超並列というアーキテクチャーはこの時点ではデータマイニングにはあまり適当ではなかった。

 要するにソフトがなかったという話であり、これを自社でまかなうにはThinking Machinesの規模は十分とは言えなかった。結局若干の数が商用向けに出るものの、主な顧客は科学技術計算を主体とした研究所ということになった。

 それでもDAPRAからの支援が続いていればThinking Machinesは存続したかもしれない。1991年に同社はDAPRAから5500万ドルもの注文を受けており、これは同社の20%の売り上げに達した。

 ところがこうした動きは、HPCCプログラムに参加している他のベンダー(Cray、IBM、NCUBE、MsaParなど)から不公平であると訴えられるに至り、DAPRAは同社向けの支出をカットする。

 結果、Thinking Machinesは1992年から一般市場相手にビジネスを始めざるをえなかった。結果は惨憺たるもので、1992年中にCM-5はついに1台も売れず、1700万ドルもの赤字を出す。

経営陣の迷走が追い打ちをかける

 こうした状況に輪をかけたのが、同社経営陣の迷走振りである。もともとDaniel Hillis博士は研究畑の人だったから、経営は共同創立者のSheryl Handler氏が主だった。

 彼女は元々室内インテリアを学び、ハーバードでランドスケープアーキテクチャーで修士号を取得、MITでは都市計画で博士号を取得しようとしていた。そういう意味ではアート方面の人である。

 もちろんアート系の人では経営者になれないというわけではなく、こうした学業とは別に第三世界における資源計画のNPOをボランティアで行なっていたそうで、こうした経験は起業の初期段階には役に立ったのかもしれない。

 ただ、CM-1の頃からビジネスプランが迷走していたり、1985年に同社がケンブリッジのCarter Ink Buildingに移るにあたってオフィスのデザインに専念していたり、CM-5のロゴの作成に4万ドルの支出を約束したり(これは後で却下されたらしい)というあたりは、なんというかSteve JobsがNeXT Cubeのデザインに結構な金額を支払ったことを彷彿させる。

 1993年には新しいCOOを迎え入れるが、彼女は直ちにこのCOOを辞任に追い込み、では自身がなにをやっていたかというと社員食堂のメニューを元にしたレシピ本作りに集中していたという、ちょっと信じられないような話もある。

 1993年後半には彼女の友人であるRichard FishermanがCOOとして就任するが、同社はもはや外部からの資金は期待できない状態にあった。

 その後、FishermanはIBMあるいはSun Microsystemsとの協業にむけて奔走するが、両社とも興味はあるもののThinking Machinesを救うことそのものは拒否した。

 結局その後も同社の経営状態は回復することなく、1994年8月にはチャプター11(破産前の更正手続き)入りとなった。同社のハードウェア部門はSun Microsystemsが買収、一方超並列マシン向けのソフトウェアを開発していた部隊はTMCとして独立するも、こちらも1996年にSun Microsystemsに買収される。

 一方Thinking Machinesそのものはデータマイニング専門会社として存続するが、こちらも1999年にOracleに買収された。

 その後Sun MicrosystemsそのものがOracleに買収されたので、結果として同社はOracleに買収された、としてもいいのかもしれない。

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