今回は、CRAY Y-MP以降のCRAYのベクトルプロセッサーシリーズをまとめて説明したい。CRAY X-MPの開発に続き、CRIはCRAY Y-MPの開発を始める。
これはCRAY X-MP EAをベース(つまり32bitアドレス)にしつつ、最大8プロセッサーまでをサポートするとともに、より高速に動作するシステムであった。
デイビスが指揮を執った次世代機
「CRAY Y-MP」
当初、CRAY Y-MPの開発を率いたのは、CRAY X-MPで名前を売ったスティーブ・チェン(Steve Chen)であったが、彼はいろいろと新機構や、半ば能力も未知数的な新技術を積極的に取り入れようとした結果、Y-MPの開発は一時期頓挫しそうになったらしい。
途中で開発の指揮は再びレス・デイビス(Les Davis)が執ることになり、無事に1988年にCRAY Y-MPがリリースされる。当初リリースされたのは4および8プロセッサーのモデルで、サイクル時間は6ナノ秒(166MHz)まで短縮された。
この結果、ピーク性能では2.67GFLOPSまで引き上げられた。メモリーはこれもECLベースのものを最大64MWord(512MB)搭載可能で、実効性能でも2.1GFLOPS程度を記録した。
この最初の世代は、後からCRAY Y-MP Model Dと呼ばれるようになった。というのは、続いて1990年にCRAY Y-MP Model Eが投入されるからである。
Model Eは、メインとなるCPUそのものはModel Dと変わらないが、最大メモリー搭載量は256MWord(2GB)に増強されたほか、IOS(I/O Subsystem)が高速化され、2倍のスループットを実現したモデルである。
Model EはModel Dと区別するためにか、CRAY Y-MP 2E/4E/8Eという型番がつけられている。また8Pモデルのみ、本来は2つあるI/Oキャビネットを1つにまとめたCRAY Y-MP 8Iというモデルが用意されている。
Y-MPに、低速だが大容量のDRAMを搭載したのが、1992年に追加投入されたCRAY Y-MP M90シリーズである。こちらはメモリー搭載量が最大4GWords(32GB)まで増強されている。
日本に対抗して開発を進めた
「CRAY-MP」
ちなみにY-MP Model Dは結果的にデイビスが指揮を執ることになり、Y-MPの開発から外されたチェンには新たにCRAY-MP(Multi Processor)という製品の開発が任される。この頃は高性能計算分野における日本のコンピューターメーカーの追い上げが著しく、これと戦うためにより高性能なマシンが必要とされていたからだ。
この時期はまだCRAY LabsはCCC(Cray Computer Corporation)として独立していないため、CRAY-2に期待する可能性もあったのだろう。それにも関わらずCRAY-MPの開発が始まったのは、おそらくはCRAY-2の完成時期が明確になっておらず、どれだけ期待できるかを、当時のCEOであるジョン・ロールワーゲン(John Rollwagen)が怪しんだためだろう。
ところがCRAY-MPの開発は、CRAY Y-MPの開発に輪をかけて難航したらしい。チェンのチームは猛烈な勢いで予算を食い潰しながら新技術を次々と導入し、確立されていない技術を盛り込むものだから開発は難航、さらに追加予算が必要になるといった感じで、結局1987年末にロールワーゲンはCRAY-MPの開発を中止させる。
ここでロールワーゲンの心中を察することはそう難しくない。1つの会社にシーモア・クレイ(Seymour Cray)は2人も必要ないのだ。そもそもX-MP以降はすべてがクレイのバックアッププランから始まっているわけで、チェンに求めていたのは、既存の技術をベースに確実な方法で性能を出すことで、果断に新技術にチャレンジすべく開発費を湯水のように投じることではない。
一方のチェンは、発言などの記録が意外に残っていないのだが、わずかな資料を読む限りにおいてはクレイに負けないだけの技術力を持っているという自負があったようだ。
1987年12月のLos Angeles Timesのインタビュー(関連リンク)を読むと、自他ともにチェンには自信と展望(野望と言い換えてもいいかもしれない)を持ち合わせており、それがやや夢想家に近い方向に振れていたように思われる。
夢想家に近いのはクレイも似たようなものだが、彼はCDC-6600からCRAY-1までの実績があるわけで、X-MPの主任技術者でしかなかったチェンとどちらが優先されるかといえば、考えるまでもない。
CRAY-MPの打ち切りに反発したチェンは、自分のチームを引き連れて独立。SSI(Supercomputer Systems Inc.)という会社を設立する。ここはIBMから資金援助を得て、SS-1というマシンの開発に携わる。紆余曲折はありつつも、1993年にはSS-1が「まもなく完成」という状況にこぎつける。
ところが悪いことに、1993年とはIBMが単年でも80億ドル、1991年からの累積では150億ドルという記録的な赤字決算に陥った年でもある。これを受けて、IBMはそれまでのCEOだったJohn F. Akersを更迭。当時RJRナビスコの会長兼CEOだったLouis V. Gerstner, Jr.をCEOに据える。
これだけの赤字決算で、しかもCEOまで入れ替わるとなると、出費が大幅にカットされるのは必須であり、SSIへの資金提供も見事にストップ。結果SSIは同年倒産し、SS-1も未完成のまま放棄された。
余談であるが、チェンは同年、今度はSCI(SuperComputer International)という会社を設立、後にChen Systemsと改名してから、Sequent Computer Systemsという、これも高性能計算業界では色々と話題を提供した会社に買収されている。
→次のページヘ続く (CPUの内部構造に手が入ったCRAY C90)
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