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「パケット通信」考案者の1人、クラインロック氏が振り返る(前編)

「インターネット誕生」の瞬間、ログに残された2行のメモ

2014年02月13日 08時00分更新

文● 末岡洋子

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1969年10月29日22時30分――アイディアとニーズがつながった!

 ARPAでは“国家使命”として研究者に研究開発活動を促すものの、研究者側のコンピューターリソースのニーズに完全には応じられないという限界を感じていた。それならばマシン間を接続してネットワークを構築し、コンピューターリソースを共有してはどうか――。

 1967年、ARPAでは開発者を集め、ウェスレー・クラーク(Wesley A. Clark)氏のアイディアであるパケットのスイッチング装置(現在のルーターの前身にあたる)「Interface Messaging Processor(IMP)」の開発に取りかかった。仕様書を完成させ、開発契約先を探す。1968年に開発契約先となったBBNは、指定された開発期間ぴったりの8カ月で、IMPソフトウェアを搭載したハネウェル製ミニコンピューターを納品したという。

IMPの開発を委託されたBBNは、納期に遅れることなくIMPを納品したという。「驚くべき偉業だ。今では考えられない」

 1969年、IMPを設置するARPANETの最初のノードに選ばれたのは、UCLAにあるクラインロック氏の研究室(ラボ)だった。9月の週末、UCLAラボにIMPの1号機が設置されたときの熱狂と興奮を、クラインロック氏は振り返る。IMPは冷蔵庫ほどの大きさで、「見た目はひどいが、美しい。大好きだった」。そして1カ月後、ARPANETの2つ目のノードがスタンフォード研究所(SRI)に設置され、UCLAとSRIがつながった。

UCLAラボに設置されたIMPの1号機と、若き日のクラインロック氏

 ここでクラインロック氏は、同年の7月にUCLAが発表したプレスリリースを見せた。「UCLAが全米を結ぶコンピュータネットワークの最初のステーションになる」というタイトルの文中で、クラインロック氏は次のような予言をしている。

 「現在はまだ、コンピューターネットワークは黎明期にある。だが将来的に成長し、高度化するにつれて、現在の電力や電話などの公益事業のように国中の家庭やオフィスに届けられる“コンピュータユーティリティ”の広がりを体験することになるだろう」

UCLAは1969年7月、「UCLAが全米を結ぶコンピュータネットワークの最初のステーションになる」と発表した

 クラインロック氏はすでに当時「WebベースのIPサービス」「常時接続」「ユビキタス」といった今日のインターネットの姿を、具体的なビジョンとして描いていたというわけだ。

 続いてクラインロック氏は、ノートに手書きされた数行のメモをスクリーンに映した。これはUCLAのネットワーク通信を記録したログ帳だ。ここに記されている「1969年10月29日22時30分」こそ、ARPANET(インターネット)が産声をあげた瞬間である。記録内容は「talked to SRI」「Host to Host」の2行。「インターネットで最初にメッセージがやり取りされた記録だ」。

1969年10月29日、UCLAからSRIに“インターネット上で最初のメッセージ”を送った際の通信ログ

 このときどんな言葉がやり取りされたのか。それは「L」と「O」だったと、クラインロック氏は証言する。初めての通信ということで、UCLAとSRIは電話で確認し合いながらメッセージを送っていた。「LOGIN」という文字列を送信すべく、まず“L”を送り、電話で「“L”送ったよ。受け取った?」と確認。「うん!」という返事の後で“O”を送る。「“O”送ったよ。受け取った?」「うん!」。そして次に“G”を送ったところで――「SRIのコンピューターがクラッシュした」。

 電話の発明者、グラハム・ベルの「ワトソン君、用事がある。ちょっと来てくれたまえ(Watson, come here. I need you.)」にせよ、人類初の月面着陸に成功したニール・アームストロング(Neil Armstrong)氏の「人類にとっては偉大な一歩である(One Giant leap for Mankind)」にせよ、“史上初”の言葉というものは後世まで語り継がれるものである。だが、われわれの生活に大きなインパクトを与えることになるインターネットは、実に味気ない言葉で始まったのだった。

最初のメッセージが送信されたUCLAラボ(3420号室)は、たった4平方フィートほどの小さな部屋。現在も当時のまま保存されている。「独特のにおいがある。いまでもこの部屋に入ると、一瞬であの時がよみがえる」(クラインロック氏)

ARPANETの拡大とインターネットへの発展

 こうしてUCLAとSRIの間は接続されたが、もちろん2ノード間を結ぶだけでは“ネットワーク”とは言いがたい。その2カ月後には4カ所のノードが相互接続され、これがARPANETの事実上のスタートとなった。以後、ARPANETのノード数は順調に増えていく。たとえば1974年6月には46ノードが接続されていた。

1974年時点のARPANETの構成

 ARPANETの拡大と並行して、アプリケーションも進化していく。1972年には、ARPANETを使った「電子メール」のやり取りが始まる。クラインロック氏は、電子メールの登場時点で40年後の“ソーシャルネットワーク”ブームも予見できたと語った。

 「1972年に電子メールが登場したとき、インターネットはコンピュータ間ではなく、人対コンピュータでもなく、人と人とのやり取りになると実感した」(クラインロック氏)

 一方でプロトコルの標準化も進む。1973年にはTCP(Transmission Control Protocol)が提案され、1978年には現在でも使われるTCP/IP v4が完成する。DARPA(1972年にARPAから改称)ではさまざまなOSにおけるTCP/IP実装の開発を支援し、ARPANETは1983年1月のタイミングでTCP/IPプロトコルに移行した。

 その後、80年代から90年代を通じて、ARPANETなどの研究ネットワークが徐々にTCP/IPを介して相互接続されるようになり、それをベースに世界的なデータネットワークであるインターネットが形成されていくことになる。

(→後編「インターネット、ダークサイドの誕生と発展」に続く)

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