映画とはきわめて個人的なものでもある
……と、ここまで映画は公共のものであると話しておきながら、相反しているんだけど、一方で極めて個人的な、パーソナルなものでもあると思うんですよ。そこが映画の非常に面白いところですね。
―― 公共のものなのに、「極めて個人的なもの」なんですか?
はい。やっぱりオリジナル映画の源流は、監督が何を考えてどんなものを作りたいかから始まるから。映画を作る動機が、往々にして自身の生活やその周囲から見つけたものから始まるんですね。
「サマーウォーズ」も、夏に公開するから夏の大冒険物をやりたいと。「時をかける少女」では主人公が女の子だったから、男の子が、最先端のネットの中の世界を冒険する。となるとリアルワールドでの舞台は、最先端とは正反対のネットも繋がらないような田舎にしようと。その場所をどこにするかといったとき、細田さんが、結婚の挨拶に行った奥さんの実家が長野県の上田で、それが「サマーウォーズ」の舞台になった、という感じで。
―― 監督自身の生活が、映画の内容に大きく反映されるのですね。
「おおかみこども」もそうですね。細田さん自身も「おおかみこども」が公開されてしばらくして子供を授かりましたが、制作の最中に言っていたのは、「自分はまだ子育てをしたことがないけれど、子どもを育てている人が身近に何人かいて、子育てを『大変だ、大変だ』と言いながら、それを楽しそうに話している。そういうのが格好よく見えた」とよく言っていて、それを映画にできないかというのが「おおかみこども」を作ったきっかけのひとつです。
だからその段階では、細田さんに「じゃあ次の映画では、興収何億円を目指そう」なんて話はしていないんです。「誰のために映画はあるのか?」と言えば、公共のためにある。けれどもその源泉では、映画は監督個人のために存在している。公共性と作家個人のパーソナルな部分の両立というか、同時に見ていかなきゃいけないということではあるなと思います。
―― 公共のものであり作家個人のためのものでもある。そんな矛盾した「映画」における渡邊さんのプロデューサーとしての仕事はどんなものだと思いますか。
「プロデューサーとは何か」ということを、僕が「アニメージュ」の編集者だった時に、当時編集長だった鈴木敏夫さん(編註:スタジオジブリのプロデューサー。元「アニメージュ」編集長)から聞いたことがあるんです。
当時「風の谷のナウシカ」のプロデューサーをしていた高畑勲さんに、鈴木さんが「プロデューサーって何をするんですか」って聞いたんですね。すると高畑さんは、「それは簡単です」と。「どんなときでも監督の味方になることです」と答えたそうなんです。
それを鈴木さんから聞いた僕も、なるほどと思いました。パブリックな映画でも、大元を生み出すのは監督です。監督は極めて個人的なところから作品を生み出すわけで、そのパーソナルなものに対しては徹底的に味方をする。それが僕の役割なんだなと思いました。映画作りは、監督と一緒にずっとマラソンしながら、監督がどこに行こうとしているのかを探っていく作業だと思います。
時には迷子になることもあって、監督が迷子になったときに、一緒に迷子になりながら、どっちに光が差しているのかを見つけていく。そういう感じだと思います。
(C)2012「おおかみこどもの雨と雪」製作委員会

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