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ThinkPadの父・内藤在正氏に聞く、“これまでのThinkPad”と“これからの20年”第1回

ThinkPadはなぜ日本で作られたのか(前編)

2012年12月22日 12時00分更新

文● ASCII.jp編集部、写真・構成●小林 久

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IBMのマシンを黒くしろ!

遠藤 「冒頭でDOS/Vの話を出してしまいましたが、実際にはDOS/VとP70の関係については、よく理解していない部分もあって──」

内藤 「まずIBMの中でPS/55(IBM マルチステーション 5550の後継)と呼んでいる製品は、日本仕様というか日本専用のハードウェアなんですね※2。一方、DOS/Vというのは標準ハードウェアの上で日本語をサポートしようという取り組みなんです。

 これはIBM P70もそうなのですが、ThinkPadという機械は実は標準機の上で日本語が動くという点、つまりDOS/Vの考え方を大きく改善して市場に投入しようとした製品なんです。日本語に対応するため“独自の仕様を追加”した機械と、英語で使うことを前提にした“ワールドワイド向け”の機械という差別化がIBMの中で取り除かれた時期と、ThinkPadが出てきた時期は非常に近接しています」

遠藤 「それは何年ごろの話になりますか?」

内藤 「1991~2年のタイミングだと思います。IBM P70のあとに僕はラップトップをひとつ大和で開発しています。『PS/2 L40SX』という機械なんですが、これは白い筐体の、バッテリーで動くラップトップでした。その後IBMはリチャード・サッパーという高名なデザイナーと契約して、PCを黒くしようと言い始めた。これまでのIBMのPCは一様に白い筐体だったんです。同時に日本のデザインチームも一緒になって、黒くて箱型のノートブックを提案した。これを弁当箱と呼ぶ人がいるという話は、後から聞いたんですけど、非常にボクシィーな形でね」

遠藤 「リチャード・サッパーというと、ブラウンの異色の電卓とかが有名ですよね。黒が割りと好きなデザイナーという印象です」

内藤 「PCのデザインは全部サッパーが手がけた。白い機械を黒くするというのがThinkPadの始まりだったんです。当時のIBMでは、デザイン部門とパソコン部門が独立していて、デザインコンセプトの立案についてはデザイン部門がかなり力を持っていました。『今度のパソコンはこういうIDでやりなさい』と、デザイン部門から指示があり、それを実現するにはこうだという議論を開発と一緒になって進めていくわけです。

 IBMのパソコン事業の中には、エントリーシステム部門のGMだったクラフリンという人間がいたんですが、彼は多分、新しい製品を“Thinkなにがし”という名前にしたいと思っていた。そこで、ThinkNoteとか、Think……とか色々候補が出てきて、最終的に四角いからPadにした。

 ThinkPadという名前は、コピーライターが作ったものではなくて、部門のトップが直々に決めたものなんですね」

※2 ThinkPad以前のIBMでは、米国などワールドワイドで展開するハードにPS/2 Note、日本語表示に必要な機能を備えた日本向けのハードウェアにPS/55 Noteという型番を付けていた。

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