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牽引者の実像 第1回

――百度(バイドゥ)駐日首席代表 陳海騰――

日本のコンテンツが中国人の日本像を変え、知日家を生んだ

2012年08月31日 12時00分更新

文● 美和正臣 撮影●小林伸

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日本のテレビコンテンツに影響を受けて
日本語専攻を決意した

 陳海騰氏が日本と関わり出すのは大学からだ。当時の「六鷺大学」(鷺江大学)、現在の「廈門理工大学」に入学する。入学当時は2000人くらいしか学生がいなかったが、現在は約1万5000人の生徒を抱える大きな大学になっている。

廈門理工大学は大きな池がシンボルとなっている。当時は2つのキャンパスがあったという。里帰りしたときに講座も行なったとのこと

陳:当時、100人のうち10人くらいしか大学は入れませんでした。大学に入るときに親から地元の市立大学でないとダメだと言われました。国立大学に行くと廈門に帰って来られなくなるからです。当時は、大学卒業後の就職場所も国が決めていて、選択権がないんです。地元の大学であれば絶対に廈門に就職できる。だから市立の鷺江大学に進学しました。

 外国語学部の日本語学科に進学した陳氏であるが、日本語を選択した理由もおもしろい。

陳:大学は外国語学部でした。履修するものを英語か日本語かを選ぶんですが、みんな英語を選択します。でも僕は日本が好きだったし、他の人と違うことをやりたかったので、英語は当然勉強する人が多いだろうと日本語学科を選びました。それも1つの戦略でしたね。みんなと違うことやるという。
 あと、日本のテレビドラマの影響です。おしん、一休さん、山口百恵さんとか大好きでした。「赤いシリーズ」とかは「ああ、また騙された」とか涙を流しながら見ましたよ(笑)。とくに「おしん」は貧しくとも頑張っていれば最後に成功するというところが好きでしたね。ほかには女子バレーボールのドラマ「アタックNo.1」とか「姿三四郎」とかものすごく感動した。日本人の精神力がよくわかりました。そういった番組は夜のいい時間に放映されていました。7時はニュースで、8時とか9時ごろに日本の番組が流れていましたね。いろいろ見て、日本はおもしろい国、豊かな国と思いました。戦争も何もなくそこまで大成功できるのは秘密があるのだろうと思いました。
 でも、それは実は鄧小平の戦略だったのでしょうね。子どものとき中国の映画といえば戦争の映画ばかりで、日本は怖い国、日本はみんな鬼みたいに描かれていました。初めて鄧小平が経済改革をやって、80年代に日本でいうNHKのような放送局で「おしん」が放送されました。「おしん」のおかげで当時の中国人の日本に対するイメージは大変友好的でしたよ。テレビでみんな日本が好きになっていました。

 大学4年間は日本語漬けの毎日。しかし、習得するのに時間がかかると言われる言語だけに苦労も多かったようだ。

陳:経済特区の大学だったので、日本語の会話とか、実用的なことを重点的にやっていました。最初は日本の古典文学をやりましたが、あまり興味が沸かなくて。「源氏物語」とか、もう本当にわけがわかりませんでしたよ。とりあえず会話重視で、NHKのラジオニュースのヒアリングをしたりしましたね。あれでけっこう鍛えられた。先生がラジオをテープレコーダーで録音したものを流すんです。するとだんだんとキーワードがわかるようになります。ニュースの内容をどこまで書けるかとかを訓練しました。廈門と長崎、佐世保市は姉妹都市でしたので、そこ出身の日本人の先生が1人いたんですよ。中国語はしゃべれませんでしたね。日本の大学はあまりテストがないですが、中国はけっこう厳しくて、1学期1回、絶対テストがあるので、その時期に大体2、3人は落第します。当時卒論はなかったので、会話とか商売のシミュレーションテストをしたりしました。たとえばセールスのリハーサルとかですね。
 会話は敬語が一番難しいですね。「行きます」「参ります」とか「差し上げます」とか。助詞の付け方が大変難しい。「私は学校に行きます」と「私が学校に行きます」とか何が違うのか、微妙なニュアンスがよくわからない。同じ「学校に行く」なのに(笑)。無理やり暗記させられて、よくわからないけれど完全に暗記しました。

 1988年、21歳のときに(陳氏の学生時代は小学校が5年制だったため、日本のように最短の卒業が22歳ではない)卒業する。卒業と同時に地元の中国大手旅行会社である「中国国際旅行社」(CITS)に入社。彼のキャリアがここから始まる。

イレギュラーはどこにも存在する!
社会経験を積んだ通訳時代

 1988年の中国は建国以来と言われる好景気が訪れていた。GNPは1兆3853億元(前年比11.2%増)、工業総生産額は1兆8100億元(前年比20.7%増)となりインフレが顕著になり始めていた時だ。一方日本はというと1986年に始まったバブル景気のまっただ中。日経平均は1月の時点で2万1500円前後だったものが、その年の終わりには3万円を超えたことで話題となった。一般的なところで言えば青函トンネル、東京ドーム、瀬戸大橋などができあがり、RPGゲーム「ドラゴンクエストⅢ」が社会現象として紙面を賑やかした年とも言える。

 陳氏が入社した中国国際旅行社は、外国人向けのツアーを扱う専門会社で、陳氏はそこで日本人向けのガイドを担当した。当時は中国の人々はまだ所得が低いため、旅行をするという習慣がなく、会社の証明書や紹介状がないと飛行機に乗れなかった時代だ。

中国国際旅行社(CTIS)は日本でも事業を展開している。陳氏はここに21歳の時に入社する

陳:日本語通訳のテストを受けてライセンスを取ったんです。ライセンスが必要になったのはその年からで、中国では一期生にあたります。それまでは旅行会社に就職すればそれで通訳ができて問題はなかったわけです。テストは筆記試験と口頭試験です。筆記試験では政治・経済や廈門の観光についてです。口頭試験ではお寺を紹介するとか、大学紹介するとかですね。観光地がいくつかありますが、ランダムに行って、その場で答えなければなりません。

 社会人1年目で会社の先輩に付き添いながら、見よう見まねで通訳の仕事を覚えていく。入社当時は地元のガイドを行ない、慣れてくるとツアーコンダクターを担当するようになったが、勝手知ったる中国人相手ではなく、文化が異なる日本人相手だから苦労も絶えなかったようだ。

陳:中国にコンピューターがなかった時代だったので、観光シーズンに空港へ行くとチケットが絶対に足りないんですよ。だから大切なのはタバコでした。空港で係員の人へ、1カートン分日本のタバコを渡して、業務をスムーズにしてもらう。ホテルへ行くといつも部屋が足らないから、またタバコを渡して(笑)。「KENT」とか外国のタバコは遊戯所で外貨でしか手に入らないから、貴重でした。だから、よく日本の旅行会社の人に頼んでタバコをもらったりしてましたね。
 いろいろツアーではトラブルもありました。北京では農協のツアーのお婆さんがホテルの絨毯を燃やしてしまって。自分で部屋で洗濯して、電気スタンドで干してるんですよ。そしたら洗濯物が燃えてしまってね。そうしたらそのお婆さん、「洗濯物の賠償をしろ、ホテル側と交渉しろ」と。もう私が寝ている最中にこういうことが起きるんですよ。添乗員時代の4年間はいろいろな経験をして鍛えられました(笑)。

当時の陳氏。

 中国国際旅行社には4年在籍した。最初の2年が現場での実務を経験し、後半の2年が部長として現場を指導することとなる。

陳:25歳のとき、当時の部下は40人です。私が退社後、後輩が私の後を継いで部長になりました。百度に来なかったら今頃は中国国際旅行社の社長ですよ。現在の社長は後輩がやっています。

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