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渡辺由美子の「誰がためにアニメは生まれる」 第23回

人は必ずブレるもの 「UN-GO」脚本・會川昇氏が語る【前編】

2011年12月17日 12時00分更新

文● 渡辺由美子(@watanabe_yumiko

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新十郎はブレる主人公になった


―― 人間とは「愚かなもの」であると。「UN-GO」ではそれをどのように描こうと思いましたか。

會川 「UN-GO」のシナリオは、放映話数順ではなくて、1→3→4→2という順番に書いていたんですね。そうしたら、4話まで書き終えたときに、震災が起こってしまったんです。それで取りあえず1ヵ月くらい書けなくなりました。


―― 書けなくなった?

會川 いろいろな面で、こういう状態で作品を続けてしまっていいのかと悩んでしまって。今の日本の延長線上にあるビジュアルが、今の日本のこの状況下で受け入れられるのかと。それでもひと月ぐらいしてようやく2話を書き始めたんですが、一番大きく変わったのは、新十郎の立ち位置ですね。


―― 主人公でもある新十郎は、どんなところが変わりましたか。

會川 1話、3~4話の新十郎は、犯人の罪を追及したり、告発する側なんですね。自分自身が背負っているものは周囲には伏せていて。でも、震災の後に書いた2話と5話、そして劇場で上映した「UN-GO episode:0 因果論」は、新十郎自身の弱さとか内省的なもの、つまり、自分自身も告発者であることは宿命づけられているけど、本当にそれが正しいのかどうかは自信がない。

 「むしろ真実を暴くことが人を悲しませちゃうことになるんじゃないの」、と彼自身が分かっている。そんなふうに変わったんです。これははっきりとした路線変更であり、キャラクターの変化ですね。本来は、ヒーローものを描くときのセオリーとしてはあまりよくないわけですけれどもね。


―― どうしてよくないんですか?

會川 「ヒーローはもっと大人であってほしいのに」と思う人も多いんですよ。でも僕が書くと、今までの作品でもそうだけど、主人公に弱さが出ちゃうんです。自分の性格的なものなのか、完璧なヒーローにできないんですね。主人公自身の弱さとか内省的なものとか、彼自身の問題がその物語にリンクしてきてしまいがちで。

 今回の「UN-GO」では、最初は「オトナの主人公」を描こうと思っていて、複雑な過去はあるけど、それを飲み込んで飄々と大人として振る舞っているスタンスのヒーローならいけるかなと思って書き始めたんです。


―― そこで震災が起きてしまった。

會川 はい。震災を経て、その主人公自身が無責任に他人を……何ていうんだろうな、他人の罪を告発するとか、指を突き付けている感じが、今のお客さんには共感されないんじゃないかなという気がしてきて。弱さも出して、彼自身が真実を暴くという探偵の仕事の中で、ブレたり、悩んだりする。それが、我々が抱く今の気分にリンクするんじゃないのかなと思ったんです。


―― 第2話「無情のうた」は、長田安という歌手を目指す少女と、テロに対する徹底抗戦を歌った“戦時下のカリスマアイドル”「夜長姫」との関わりを描いた物語でしたね。そこで新十郎の弱さをどのように出そうと思いましたか。

會川 新十郎が、罪を犯した人物に思い当たったときに、苦しい状況下で懸命に生きているその人の罪をあげつらって何になるのかと、新十郎が揺れちゃうんですね。ここで真実を明かすことによって誰も得しないじゃんと。

 人は愚かだけど、新十郎もまた自分が愚かであることを知っていて、だからこそ人は美しいのではないかとさえ考えてしまう。だけど因果との約束があるのでやらなきゃいけない……その辺で揺れ動くんですよ。これは安吾の随筆などにある考え方にもいろいろと共通する考え方のような気がします。


―― なるほど。ブレのあるヒーロー像のほうが、視聴者は“今”だと感じてくれるということでしょうか。

會川 どちらかと言うと、ヒーロー的な行動を取るのは別に特別な人間ではなくて、“普通の人”がヒーローといわれるような行動を取ることもあると。そんなリアリティー感覚をみんなが共有するようになったんじゃないかと思っています。9.11後のアメリカでも起きた現象ですけれど、日本でも地震直後からそうした報道が流れ始めましたよね。

 だけど、その“普通の人”は偉業を為してくれるけれども、同時にすごく悲しい部分も持っている。だから我々がテレビで見て、安易に「人間は素晴らしい」とか「日本は素晴らしい」とか言ってるのは、ちょっと気持ち悪いなと思うところもあるんですね。


―― なるほど。

會川 僕にとって非常に印象に残る話があって、津波が起きたときに、最後まで自分の仕事をまっとうしていたがゆえに亡くなってしまった方がいたでしょう。テレビで見るたびにやっぱりせつない思いをするんだけれど、しばらくして、亡くなった方のお父さんが「みんなが立派だ、立派だと言ってくれるけれど、やっぱり自分としてはただ生きていてほしかった、何で逃げなかったんだろうと思った」とはっきりと言っていたんです。

 これが人間のリアリティーでしょう。もしもこれが戦争中だとしても、やっぱりそこで人を助けて死んだ我が子は立派だと、我が子のおかげで助かった人がいて良かったなんていうことを言えるほど、人間とか父親というのはそんなに“よくできた”ものじゃない。

 人間とかヒロイズムのリアリティーのあり方というのは、同じ人間が尊い行動も取るけど、同時に自分のことも考えちゃう。物語を作るにしても、そういう振り幅が作品の中にも必要なんだろうなと思うんです。今の時期なら、振り幅のある、ブレる人物でもお客さんに共感してもらえるんじゃないかと思って、新十郎を始め、大人のキャラクターでもそうしているところはありますね。

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