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渡辺由美子の「誰がためにアニメは生まれる」 第23回

人は必ずブレるもの 「UN-GO」脚本・會川昇氏が語る【前編】

2011年12月17日 12時00分更新

文● 渡辺由美子(@watanabe_yumiko

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高校生で脚本家デビューした後に……


―― 脚本ではリアリティーをもった人間を描こうとされていると。そもそも會川さんが脚本家になったきっかけは何だったんですか?

會川 中学生くらいのときから、将来何の職業をやっていくのかぼちぼちと考え始めるわけですけど、なぜ脚本家だったかというと、文章が好きだったのと、特撮が好きで映像には行きたかったんです。監督業は、一本の責任を全部持たなきゃいけない。でも脚本家はわりと自由に、これが終わったら次はこれ、と身軽にいろんな作品に関われそうな気がしたんです。

 あとは、一貫したフィルモグラフィーを持てる気もしたんですね。当時は中1だから1978~79年あたり、日本映画がもう本当にどん底な時期で、監督でさえも一貫した作家性を持ちにくかったんですよ。脚本家の方がまだ、作家としてのラインが繋がっているように、僕には見えたんですね。

 たとえば「ウルトラセブン」を書いていた市川森一さんは、大河ドラマ「黄金の日日」の脚本家でもある。「ウルトラセブン」から「黄金の日日」の間には軌跡があって、「刑事くん」「太陽にほえろ」と刑事物が続いて、「日曜劇場」でファンタジーっぽいものを書いて、一方で、NHK「失楽園」でファンタジーから現実に飛ぶ話を書いていて、その上で「黄金の日日」にいっている。脚本家は、作家として一貫して「自分の考え」を出していける仕事であると僕には思えたんですね。


―― 文章を書く仕事にもいろいろ種類がありますが、「物語」を書きたいと思ったのはなぜでしょうか?

會川 物語は、僕はいまだにどこからか“降ってくる”ものだと思っているんですよ。物語そのものにはそんなに強く惹かれることはないですね。「自分が書かなきゃいけないもの」を決めたら、あとは降ってくるストーリーを乗せるだけ。僕の場合はそうですね。


―― ご自身の中に、「書かなきゃいけないもの」があるわけですね。

會川 まず枠組みを考えるのが先ですけれども。今でもそんな感じで、ロボットものとか時代劇とかの枠組が決まってから、このフレームの中で自分は何を書くのかを考える。ある時は社会的なテーマであったり、もしくはもっと根本的なもの、どうも自分はこの登場人物を使って何かを描きたいらしいけどそれは何だろう? みたいなことを心の中で探る。それが決まった後に、じゃあそろそろお話を考えようか、という順番です。

 高校2年のときに「亜空大作戦スラングル」(1983)というアニメを書いたのが脚本家デビューです。ツメエリで、1人で打ち合わせに行きました。放送されたのは高3になってからですけど、本を書いていたのは高2です。


―― 早熟で華々しいデビューですね。では高校生でデビューして、そのまま脚本家になられたと。

會川 いえいえ。その後、シナリオの仕事をするのに4~5年かかりました。


―― それはなぜですか?

會川 高校生で一番楽しいことができちゃったわけですよ。それでちょこちょこお金も入ってくる。高校生としてはわりといいバイトだったわけです。そのころ僕は「宇宙船」「アニメック」「アニメージュ」とメディアの仕事もしていたから、そこそこ稼げていたし。

 それで、うちは進学校だったんだけど、もういいや、大学へ行ってもこの仕事の邪魔にしかならないなと思って行かなかった。うちの学年で大学に行かなかった人間は、たぶん僕ともう1人だけだったと思います。自分はシナリオの世界に行けばいいやと思っていたら、高校生で3本書いたくらいでは、別に続けて仕事は来なかった。今思えば当たり前ですけどね。


―― 高校生で3本も書いたら、新進気鋭の若手シナリオライターとして、そのままずっと行ける気もしますが。

會川 いや、そんなことない。まったくない。

 これは時代のせいにしちゃいけないと思うけど、80年代中盤からはTVアニメも“アニメ冬の時代”といわれる時代に向かって真っ逆さまに落ちていくときだったんですよ。特撮物はもっと底だった。1980年に「ウルトラマン80」が放送されたけど、その後円谷は新作をほとんど作ることができなくて。日本映画も斜陽と言われていた時期だし、テレビドラマも募集がない。

 だから、メディアの仕事をしながらお付き合いのできた監督さんとかプロデューサーさんに、「シナリオの仕事があったらできますよ」とアピールしてました。アニメだと平野俊弘さんやサンライズ関係。東映の鈴木武幸さん、長石多可男監督、出渕裕さん。円谷の鈴木清さん、高野宏一さん。お世話になっていた長坂秀佳さんの「特捜最前線」にプロットを応募させてもらったりと、四方八方手を尽くして必死に脚本を書ける機会を探していました。


―― 映像の道に進むのは、大変な時代だったんですね。

會川 それとは別に、自分自身が振り返って思うのが、「自分はどんな方向に行くのか」のビジョンがはっきり見えてなかったところはありますね。脚本家になろう、とは思っていたけれど、「どういう脚本家になりたいのか」はたぶんはっきりしてなかった。

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