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古田雄介の“顔の見えるインターネット” 最終回

アンサイクロペディア“中の人”が語る、ユーモアの難しさ

2011年11月02日 12時00分更新

文● 古田雄介(@yskfuruta

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求められるのは「バカにならず、バカバカしくやる」センス

―― 管理に関してもうひとつお聞きしたいのが、是とする記事の輪郭です。パロディ元のウィキペディアは百科事典ということで、事実か否かという判断基準がありますが、アンサイクロペディアの場合は「面白いか否か」のような主観に基づく線引きしかできないじゃないですか。そこはどう判断しているんですか?

Muttley そこはですね……いまだに苦心しています。すごく曖昧にいえばセンスの善し悪しなんですけど、おっしゃる通り、センスは人によって評価は分かれますし、管理者側をみても自分のツボにはまらないユーモアを認める/認めないの度量の差もありますしね。

 だから、管理者個人のセンスに頼って判断している部分はどうしても出てくるんですが、大雑把な輪郭としては「馬鹿にならずにバカバカしくやる方法」というページの記述がいいところを突いていると思います。

サイトトップの「インフォメーション」になる「馬鹿にならずにバカバカしくやる方法」。事実をベースにして不条理を織り込む手法や、同じ内容を繰り返す技、不真面目なことを真面目に書くスタイルなど、ユーモアの基本テクニックがまとめられている。このページは英語版の翻訳をベースにしており、複数の言語版で共通のサイト理念ともいえる


―― その理念から逸脱した……たとえば、内輪でしか笑えないような記事や、皮肉のつもりがただの糾弾になっているような記事は、それぞれの管理者が判断して削除している感じですかね。

Muttley あまりにひどいものは別にして、大抵はまず削除依頼が出されて、普通のユーザーを含めて皆で論議し、記事を削除するか否か決定するのは一般的な流れですね。言言い回しに使っているネタ元を皆で確認して、「それで、ユーモアは感じますか?」と多くの意見を聞いたうえで決定するのがフェアですから。まあ、本当はネタ元を知らなくてもユーモアを感じるのが最良だと思いますけど。


―― そういう意味で、多くの人が知らないということ自体をネタの要素にした「栄村大震災」は好例ですね。その辺りのユーモアの機微は国民性で変わってくる部分もある気がします。Muttleyさんからみて、他言語版と日本語版には何か違いはありますか?

Muttley まったく違いますね。私も一時期、自分の(記事)創作能力に限界を感じて、英語版の「秀逸な記事」を翻訳して日本語版に持ってこようとしたんですよ。でも、何回も挫折しました。細部まで翻訳できても、なんでそれが面白いのか理解できないという部分がたくさん出てくるんですよ。これはセンスの善し悪しという話ではなく、ジャンルの違いといいますか……とにかく、移植できないものがあるんですよね、やっぱり。


―― なるほど。ちなみに、日本語版を書くうえで、削除されにくい記事を書くコツがあれば教えてください。

Muttley まず大原則として、完全な妄想記事にしないことですね。脳内だけで作り出すのではなく、様々な事実を調べて、そこにユーモアある皮肉を盛り込むのがいいと思います。あと、皮肉は誰にでもストレートに伝わるほうがいいです。現在のアンサイクロペディア日本語版にも、捻くれすぎていて、パッと理解されずに誤解されたり、一部の知識層しか楽しめない記事がわりとありますから。……たとえばひとつのスタイルとして、虚構新聞社さんみたいに誰でも笑えるように工夫したうえで明確な嘘を書くのもありだと思います。別の手法を採るにしても、この「誰でも笑える」という部分は共通する重要な要素じゃないですかね。

 そうした方向性やコンセプトを掴んだうえで、まずは「サンドボックス」で練習記事を書いてみるのがいいと思います。

サンドボックスは、アンサイクロペディアで執筆・編集するためのフリースペースで、ウィキペディアなどの他のWikiサイトでも用意されている場合が多い

ウィキペディア日本語版にある「虚構新聞」ページは、最初にMuttley氏が作成した。「あんなに面白いサイトがあるのに、なぜページがないんだろうと思いまして」と高く評価する

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