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まつもとあつしの「メディア維新を行く」 第29回

『アニメ作家としての手塚治虫』筆者・津堅信之准教授インタビュー

アニメ業界は手塚治虫から何を学べるか?

2011年09月28日 09時00分更新

文● まつもとあつし

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アトム方式はなぜ生まれたのか?

―― テレビアニメに製作委員会方式が定着したのは1995年の「新世紀エヴァンゲリオン」からだと言われています。あれも、確信があったわけではなく、どうすればお金を集めて自由な作品作りができるかというところから出てきたとか。

 手塚先生がアトムで、週1本放送を選んだ理由はあるのでしょうか?

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津堅 「手塚先生ご本人の発言が時間の経過で変わるのと、結構話を大きく語られることがあるので、どこまで本音を言っているのかわかりません。したがって、ご本人の発言と、周りの人たちの当時の印象を聞き出して、それを足し算するしかありませんでした。

 総じて言えることは、単純にアニメをやりたかったんだと思います。ただ、ディズニーのようにはやれない。ディズニーのアニメプロダクションはピーク時で数千人のスタッフがいましたから。それはとても無理だということにはすぐ気づかれたと思います。

 ディズニーを見本にして生まれた東映動画が1956年にスタートしています。これは手塚先生がいわゆる全国誌での連載漫画で有名になっている時期です。東映動画は数百人規模で新入社員をどんどん入れて、長編アニメを作っていました。とっても羨ましいけれど、同じようにはできないと」

―― 手塚先生も一時、東映動画(現在の東映アニメーション)に在籍しましたよね。

津堅 「嘱託みたいな形で『西遊記』の制作に関わっています」

―― ただ、それが自分の思うようにはならなかったわけですよね。その体験が虫プロ設立に繋がっていった、という理解でよろしいでしょうか?

津堅 「そうですね。それが唯一の動機ではないでしょうけれども。やはり大きないくつかの動機のうちの1つだったと思います。しかも、東映動画と違うことをやらなきゃならない。違うことをやるとすれば……と考えたときに、当時の最新メディアであるテレビに目を付けたのだと思います。

 映画界は、テレビを非常に馬鹿にしていましたので」

―― そうですね。

津堅 「そこを逆に乗り込んでいくという、ある種の野心もあったと思います」

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―― わたしは軍司貞則氏の『ナベプロ帝国の興亡』で当時の雰囲気を掴んだのですが、渡辺晋社長が1959年に「ザ・ヒットパレード」という新しいテレビ向けの歌番組を開発したのと、ほぼ同じ時期なんですよ。テレビで番組を作ろうという取り組みのなかで、渡辺社長がキャンディーズを発掘して、生で歌わせるということを、初めてやった。その中から、すぎやまこういちさんら、今に繋がる才能のある人達、若手が集まったのと重なって見えます。

 当時は、映画業界からは低く見られていたわけです。テレビ局に就職すると親に言ったら、お願いだから止めてくれと言われた、という逸話もありますよね。

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津堅 「映画俳優がテレビに出ると、落ちぶれた扱いされる、みたいな」

―― そんな空気があるなかで、東映動画でのある意味挫折があって、おそらく手塚先生のことなので、見返してやろう、みたいな思いもあったのかもしれませんね。

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