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四本淑三の「ミュージック・ギークス!」 第71回

週刊アスキー福岡総編集長が語る

初音ミクは日本の伝統芸能だった

2011年09月17日 12時00分更新

文● 四本淑三

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人間が演じる必要がなかった

―― そこまで本物っぽくしたいのに、どうして人間自身が演じないんでしょう? 人間が演じた方が早いとは思わなかったんでしょうか?

福岡 それは「見立て」ってあるじゃないですか。人間が出てくる出てこないという前に、架空のものに熱狂できるかどうかという素質ですね、その方が、まず問われるんだと思います。それが日本人は割とスッとできちゃう。

―― 落語の扇子で蕎麦をすするような仕草ですよね。

福岡 そういう見立ての文化なんだと思いますね。メタファーを何度もひっくり返していく流れがある中で、ひょっと人形が出てくるんです。人形芝居は鎌倉末期くらいから始まっているはずなんです。ちゃんとした文献が残っているわけではないんですけど。傀儡師(くぐつし)が、紙芝居をやったり、自分で作ったちょっとした人形で説教話を聞かせたり。それを生業とする人たちが出てくる。

日本の芸能には昔から「見立て」という伝統がある。初音ミクにも見立ての感覚が通じるという

―― 操り人形で人形劇をする、旅芸人ですよね。

福岡 近松が竹本座を作って本格的にやろうというのが18世紀なんですけど、それ以前に人形で行けるという目算があったんでしょうね。つまり日本人は、それまでに人形芝居にはまっていたわけです。そのルートを辿って行かないと、人間が出てこない理由というのも出てこない。その時に、もう日本人にはそういう才能があった。逆にそう考えたほうがいいんじゃないかと。

―― つまり人間の役者よりも先に人形劇の人形があったと。

福岡 逆に人は必要なかったということなんですよ。たとえば西洋の人形って気持ち悪くないですか? あれは不気味の谷の論理で、リアルを突き詰めていく途中で急に不気味になるという。日本人はその不気味の谷を避けるのが上手い、と思っていたんですけど、そうじゃなくて、わざと不気味に作っているんじゃないか。偶像に魂を込めたり思いを抱いたりするのは、宗教的に許されなかったから。でも日本人はすべてのものに生命を感じるじゃないですか。そういうものがどこから来たのか全く分からないですけど。

Image from Amazon.co.jp
表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)

―― 福岡さんのツイートをまとめたトゥギャッターで同じコメントしている人もいましたけど、たとえばロラン・バルトの『表徴の帝国』は天皇制の話ですけど、日本人は中心に巨大な空虚を抱えているという。それを敷衍していくと人形も同じ構造ですよね。

福岡 その通りだと思いますね。あとはね、人形のお姫様の顔は、たぶん今で言う「萌え」だったと思うんですよ。あと200年経って未来の人が『まど☆マギ』や『けいおん!』のキャラを見たら、なんで当時の人はこんなものにハマったかね、って思うかもしれないけど。そのお姫様の人形を(人形浄瑠璃で)逆さ吊りにして、鞭でしばいて火責めとかにするわけですよ。そりゃ萌えますよねえ。ヘンタイでしょ?

―― 18世紀の日本にもヘンタイと萌えはあったと。

福岡 たとえばね、江戸の人が作った『碁太平記白石噺』という江戸浄瑠璃があるんです。仙台のとある姉妹が、江戸に来てお父さんの敵討ちをするという話なんですけど。上方で流行っていたんで、江戸でも義大夫を語りたい人がいたんですね。当時の三井家のお坊ちゃんが言い出して、皆で作るんですよ。江戸的CGMですよ。「浄瑠璃作ってみた」くらいの感じですよ。

―― ニコ動に上げちゃったみたいな。

福岡 そうそう。それで何か萌え要素入れなきゃというので、妹は16歳くらいで、ずっと奥州で暮らしているから訛りがあるということになってたんです。江戸では当時、奥州訛りが流行っていたらしいんですね。姉はめちゃくちゃ綺麗な大夫で、妹はちょっとカワイイ系の仙台訛りの子。萌えの要素だけはしっかり入っている。それが文楽なんですよ。大衆芸能だから当然そうなんですよ。高尚なものでも何でもなくて、萌えの要素が入らないとみんな観に行かないわけで。

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