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渡辺由美子の「誰がためにアニメは生まれる」 第1回

アニメでも箱庭は作らない 「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」監督に聞く【前編】

2010年07月17日 12時00分更新

文● 渡辺由美子

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ピリッとした「現実」を入れたかった

―― 「この世界ではこれが当たり前なんだ」ということを見せることで、観る側に何を実感させたいと思いましたか。

神戸 「現実だ」ということですね。カナタたちが生きている世界というのは、彼女たちにとっては現実ですので。

 最初にお話しした、ほのぼのしたテイストにしつつも、奥行きのある作品にしようという話ともリンクするんですけど、「ピリッとしたつらい部分も入れましょう」という話は、僕からもしました。だって、現実ならピリッとしたところがないわけがないですよね。

 楽しいことだけで閉じているような「箱庭」のままにはしておかないぞ、という。多少そういう気分もあったかもしれません。

戦地の「現実」をアニメに託したかったという

―― ほのぼのアニメに、生っぽい実感みたいなものを与えると。

神戸 そうですですね。「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」で僕が入れた現実というのは、親の存在ですね。親がまったく出てこないということはやめたいと思ったんです。絶対に両親がいて生まれているはずなので。

 アニメでは「大人」をクローズアップして描くということはなかなか難しいんです。お客さんのニーズから外れてしまうということもあって。僕なんかは、35歳の男性が主人公の作品だってあっていいと思っているんですが。

 中でも「親」というのは、ティーンエイジャー層からは口うるさい存在として煙たがられる。ティーンエイジャーというと反抗期ですよね。僕も昔は結構そんな感じで、親なんてと思っていた時期ってやっぱりあったんですけど(笑)、自分が年を取ってくると、親ってすごいなと思ってくるわけです。みんな親がいるから生まれているわけで、親は大事にしましょうよというのがあって。

 だから、画面上には登場しなくてもいいからカナタたちの親の存在を明確にして欲しいということは、脚本の吉野さんにお願いました。

 カナタが親からの手紙を受け取るとか、その一方で、クレハの親は戦死しているとか、それを対比として見せるというふうに。画面上には出さなくても、親の存在というのは強く意識して描いていました。

血が通った「両親」の存在を出しておきたかったという

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