今で言うボーイズラブ!?
ユダ×キリスト「駈込み訴え」
申し上げます。申し上げます。
旦那さま。あの人は、酷い。酷い。
はい。厭(いや)な奴です。悪い人です。
ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。(「駈込み訴え」より)
「駈込み訴え」は、ユダが、キリストへの愛ゆえの憎しみと裏切りを、密告相手に訴える、という体裁を取っている物語。
相手が同性とはいえ、ユダのキリストへのプラトニックな片思いには胸がうたれる。
あの人は嘘つきだ。
言うこと言うこと、一から十まででたらめだ。私はてんで信じていない。
けれども私は、あの人の美しさだけは信じている。
あんな美しい人はこの世にない。
私はあの人の美しさを、純粋に愛している。それだけだ。(「駈込み訴え」より)
マグダラのマリヤが登場することで、キリストの、マリヤへの並々ならぬ感情に気づき、ユダは嫉妬に苦しむ。
その時、あの人の声に、また、あの人の瞳の色に、いままでかつてなかった程の異様なものが感じられ、私は瞬時戸惑いして、更にあの人の幽(かす)かに赤らんだ頬と、うすく涙に潤(うる)んでいる瞳とを、つくづく見直し、はッと思い当ることがありました。
ああ、いまわしい、口に出すさえ無念至極(むねんしごく)のことであります。
あの人は、こんな貧しい百姓女に恋、ではないが、まさか、そんな事は絶対にないのですが、でも、危い、それに似たあやしい感情を抱いたのではないか?(「駈込み訴え」より)
ユダの、キリストへの憧れ・嫉妬・愛情が、やがては殺意に転じていく。
結末は周知のとおり、ユダがキリストを売るのだが、それを知っていても、太宰の人間を分析しつくした繊細な心理描写には驚かされる。
この「駈込み訴え」でのユダの心理描写は、あくまで太宰の想像でしかない。
しかし、太宰の死後、1970年代に「ユダの福音書」が発見され、そこにあるユダ像と、太宰が「駈込み訴え」で描いたユダ像とが、多く重なっていたことがわかった。
太宰の分析力や人間洞察の鋭さがうかがえるエピソードだ。
なお、この作品は、前述しているとおり、改行がほとんどないので一見すると読みづらそうだが、文体が口語調のためするりと読める。
それもそのはず、「駈込み訴え」は太宰が一度語っただけのものを、妻に書き取らせた、口述筆記の作品なのだ。驚くべき才能である。
ちなみに余談ではあるが、「駈込み訴え」の同人誌も存在するようだ。女性読者には、ボーイズラブ的な物語としても楽しめるのかもしれない。(ユダ×キリストではなく、キリスト×ユダという主張があってもいい)
本書に掲載されている「畜犬談」「駈込み訴え」以外の作品も濃く、どのように濃いかを詳しく紹介したいが、今回はここまでとしよう。
太宰好きにも、そうでない方にも読んでいただきたい太宰本だ。
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