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「TK-80実演とシンポジウム」レポート

日本の“マイコン文化”はまさにここから始まった

2010年03月28日 18時00分更新

文● 行正和義

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フリートークにおける榊正憲氏の談(抜粋)

榊氏
TK-80ユーザーであった榊氏。キットとはいえ、部品がきちんと並んで収められているパッケージング自体が珍しいという時代だった

 1970年代後半、アマチュアがコンピュータに手を出した時期で、ごく一部の人がラインプリンターに繋がったミニコンを触るくらいでしたね。ようやくプログラム電卓が高校の授業に入る頃で、そこに登場したのがTK-80だったわけです。なによりカッコ良かった。部品が揃っていて、キットとはいえきちんとしたパッケージに並んで入っていて、1台で入力も出力もあるという。もちろん組み立てはそれなりに苦労があるけれど、問題はその先にある。

 その当時、コンピュータに触ったことのある人というのはBasicなりCOBOLなりFORTRAN(のコンピュータ言語を使う人)。ところがTK-80は入力からして16進で、命令セットを見ながら(すぐに覚えちゃうけど)のマシン語ですから。TK-80は7万台売れたというけれど、実はプログラミング言語からマシン語入力へのハードルでドロップアウトした連中も意外に多かったんではないでしょうか。しかし、その難関を乗り越えた人たちが初期のI/Oや創刊当時のアスキー(月刊ASCII)を支えてくれて、その先に控えるBASICが動くコンピュータ、PC-8000シリーズなどが登場したときのアマチュア層というものを作り上げたんでしょうね。

 また、面白いのはその段階でプログラムができるようになった層が、今度はハードウェアのほうに目を向けるんですね。TK-80を自在に使えるようになったけれど、TK-80の7セグメントLEDではやはり物足りない。そこでキャラクタディスプレーを作ったり、IBMのタイプライタをつないだり、フロッピーディスクとのインターフェースを自作し始める。

 CRTディスプレーで「STAR TREK」のゲームを動かすというようなことが1970年代末頃のマニア層の究極の目標だったわけで、そこに至るためにソフトウェアだけでなくハードウェアの勉強もするという状態だったのですね。

 フリートークにおいては、当時のマイコン商品や1977年に開催された第一回の「パソコンショウ West Coast Computer Faire」を訪れた際の体験談などを交えつつ、当時のマイコン文化やなぜかそこにTK-80が展示(NECとしては輸出していないので、マイコン教育キットとして米国の会社が購入・展示したようだ)されていたエピソードなどを紹介。

 TK-80をめぐる話で特に面白いのは、当時NECとしてはTK-80を推す気はなく、Bit-INNにしても看板にNECの名を出してもいいが運営には予算を回さないという状態だったこと。やむなくBit-INNの看板を出す店には、NEC製チップをディスカウントして卸すような裏約束でやっていたという。さらにはBit-INNを中心として地域のマイコンクラブを作る手配のために全国行脚を組むなど、今だから笑って明かせるものの、当時の苦労が伺える内容だ。

 さらに実働するTK-80のデモなどが行なわれたのだが、30年を超えてなお実働する機材があることに驚くとともに、デモ用として“魅せる”機材も持ち込まれた。

富田倫生氏 フリートークの場において、コンピュータ黎明期を描いたドキュメント「パソコン創世記」著者である富田倫生氏が参会していたのでコメントをいただいた。「1970年代から1980年代というマイコン文化黎明期を支えた人たちがここに集まってその当時の語るなか、多くの方々はiPhoneを操作し、このイベントもニコ動でリアルタイム配信され、Twitterで中継されている。これは時代を超えたつながりというものを実感できる」
中日電工という会社が作ったTK-80互換ボード
名古屋の中日電工という会社が作ったTK-80互換ボード。279個の汎用ロジック(つまりLSIを並べて8080と同等の機能を持たせた)使った恐るべき製品。受注販売ながら購入も可能だが、もちろんキットなので袋単位で届くものすごい量のICをハンダ付けする必要がある

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 (次ページ、「写真でみる『TK-80実演とシンポジウム』」に続く)

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