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「TK-80実演とシンポジウム」レポート

日本の“マイコン文化”はまさにここから始まった

2010年03月28日 18時00分更新

文● 行正和義

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開発者の後藤富雄氏の話(抜粋)

後藤氏

開発当時のチーム(全員ではないが、このイベントにも出席された)とともにした苦労談を語る後藤氏。多くの工程は多摩川事業所で行なわれたが、発売を前にして春闘が始まり、ストで休むわけもいかず借りたアパートの一室で作業を進めるなど、今になって明かされる話も多かった

 NECに入社したおり、アマチュア無線をやっていたこともあってマイクロ関係の部署に配属されて、「マイクロ波だ」と喜んだらマイコン部署だったわけです。実はそのころ、半導体は扱いが悪いと言われるところだったんですね。

 それで半導体の生産設備設計を担当していて、LSIテスターを設計したのですが、これがまたよく壊れまして。そのときに導入したのがDEC(Digital Equipment Corporation、その後Compaq、HPへと買収された老舗メーカーのひとつ)の「PDP-8」。このマシンは当時のDECの方針として、ユーザーがカスタムしてもいいかわりに技術情報を開示するという珍しいコンピュータで、それでだいたいオープンな考え方がわかったのです。

 実は20歳でNECに入社するまではコンピュータというものを触ったことがなかったんですが、このPDP-8をほとんど自分のマシンのように扱う立場にあったため、コンピュータに関する知識はその数ヵ月で自分のものにしたようなものです。

 そうこうしているうちに渡辺さんから「コンピュータの販売部門を立ち上げるので手伝え」と言われて、20名ほどの部署ができまして、私がリーダーになったのですが、実はその部署のほとんどが20代前半で、リーダーになったのも入社するのが数年早かったという程度のことでした。

 そのうちインテルが8080を開発し、NECはその互換チップ「μCOM-80」を製造して販売したわけです。今にして思えば互換チップで商売というのもとんでもない話ですけど、当時は互換性のある製品が出ること自体、メーカーの評価を上げるものだったんですね。また当時出たばかりのNECのメモリ(256bytes)、これをふんだんに使うことでTK-80が商品化されたわけです。

試作機のひとつ

発売前の試作機のひとつ。プリント基板はなく、配線は裏側にある膨大な量の電線による。横須賀通研に納品したものも、同様だったそうだ

 TK-80の開発には入力装置にテレタイプ端末を使わないで安く上げるのが命題だったのですが、当時の輸入雑誌を見ていたらアメリカで「KIM-1」というやはりキットのワンボードマイコンがあってこの16進キーを使おう、と考えた。しかし、当時のキーはチャタリング(1つのキータイプが誤って複数回入力されるような挙動)が酷くて、その防止のために1つLSIを使うほどでした。

 そのとき隣の部署が電卓を作っていたので、そこから技術を借りてきています。さらにはプリント基板も苦労しました。ちなみに8月の発売を前にして、4月か5月頃に5台を横須賀通研(当時の電電公社、現在のNTT横須賀通信研究所)に納品したのですが、その際はTK-80のような商品状態ではなく、配線は裏側に電線を張り巡らすような状態でした。要はプリント基板部分ができていなかったわけなのですが、新入社員教育の意味では役立ったようです。ともあれ、このプリント基板へのレイアウトや製造もNEC社内の専門の部署に頼んで製造してもらったものですし、またLEDやコンデンサにしてもNECの内製です。TK-80自体は当時のNECのプロジェクトではなかったものの、その商品化にはいろんな部署の尽力とそれをつないだコミュニケーションの力があったと言えますね。


 (次ページ、「フリートークにおける榊正憲氏の談」に続く)

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