3月27日、東京理科大神楽坂校舎内記念講堂にて、「パソコンの元祖TK-80・実演とシンポジウム」が開催された。すでに記事で紹介しているように(関連記事)、東京理科大の近代科学資料館が“情報処理技術遺産”として情報処理学会の分散博物館に認定されたことを記念したイベントだ。
日本における初期のマイコン文化を立ち上げたTK-80がどのようにして生まれたかなど、TK-80のプロジェクト責任者だった渡辺和也氏、開発者の後藤富雄氏を招いて当時の様子を語ってもらうほか、『復活!TK-80』(小社刊)著者の榊 正憲氏を交えたトークイベントという内容である。
参加無料ながら、実演デモとしてTK-80の実機の動作や、ユーザーの本体/周辺機器を持ち寄って稼働させることも可能で、当時のマイコンファンやTK-80ユーザーも含めて、会場の熱気はかなり濃く、当然ながらこれまでのPC関連イベントとしては類を見ないほど平均年齢の高い場となった。
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復活!TK‐80榊 正憲(著)アスキー
TK-80のプロダクト責任者だった渡辺氏が
当時を振り返る(トークセッションより抜粋)
当時はコンピュータ=メインフレームですので、銀行のオンラインサービスとか国鉄の座席予約システムなどが花形とされていた時代なんですね。いわゆる“ミニコン”と呼ばれる装置でも部屋ひとつを占有するようなものだったわけです。そのうちにLSIが進化してワンチップのマイコンになって、NECもマイコンチップを製造し始めたわけです。
その当時は半導体集積回路部門だったのですが、なにしろメインフレームが中心ですのでコンピュータ自体の年間需要が1万台くらいしかない。そこにマイコン搭載の小さなものを作って売る、つまり需要そのものを作り出すことがひとつの命題だったわけです。ちなみに、当時ほかの会社でもマイコン開発に取り組んだのはコンピュータ部門ではなくデバイス部門だったようです。デバイス部門のほうが、今後どれだけ集積していくのかを知っていたわけですね。
ともあれマイコンチップの市場開発に「家庭用ミシン」や「家庭用編み機」、「キャッシュレジスター」など、組み込み用途へと売り込んでいったんです。マイコンならばなんにでも使える。しかし、マイコンでなんでもできるといっても“マイコンが分かっている人”がいない。そのコンピュータ・リテラシーを広げなくてはいけないのに、当時あちこちにあったコンピュータ関連の教育はまだ黒板とノートという状況で、たとえテレタイプ端末があっても教室には持ち込めない状況だったのです。そこで教育・教材用で入出力のある機械が必要とされたわけです。
教材ということもあって、TK-80を「自作キット」として販売したわけなのですが、もちろん完成品という形ではないため、組み上げて動かすための関係資料や技術資料をすべて公開しました。実はこれは当時としては考えられないことだったのですが、このすべてをオープンにするという姿勢は後々ソフトウェアや周辺機器を作る人たちがサードパーティとして成長する鍵になったわけです。
さらに秋葉原に「Bit-INN」(パソコン黎明期を支えたNECの直営ショップ/コミュニケーションスポット)を作り、NECマイコンクラブを作って市場に訴求したのですが、客層は幅広くて大学の先生や研究者、企業の開発者など多彩なものでした。
ちなみにこの当時、多くの会社では大手銀行やら航空宇宙開発やら、大きなことをやることがコンピュータの取り組みとされていたので、「NECともあろうものが秋葉原でマニアの相手をするのか」と呆れられたのですが、そのうちにほかの会社もやりだしたんですね。
さて当時のことをよく人に聞かれますが、第一には新しい市場が革新的にできあがるのは、関係者の8割が反対しているときでしょう。5割や6割の賛成者が現われているような状況ではもう遅いと言っていいですね。二つめは既成概念にとらわれてはいけないということ。三つめはあくまでユーザーオリエンティッド、もしくはマーケットオリエンテッドでないといけません。多くの会社では社内や競合他社ばかりに目を向けている人が多いですが、あくまでも市場を見てないとだめです。最後に四つめは、最新の情報を10日以内に入手することです。本や論文に載ったときにはもう古いんですね。そのためにもインフォーマルなコミュニケーション手段を持っておくのは重要でしょう。
ともあれTK-80の場合、市場にはマイコンに対する潜在的な欲望というものがあって、そこを顕在化したことが大きいのでしょうね。
(次ページ、「開発者の後藤富雄氏の話」に続く)