激しい議論を呼んだ
日本市場でのNetScreen投入
日本市場において、このNetScreenシリーズをいち早く販売したのが、日立西部ソフトウェア(現日立システムアンドサービス)である。同社は社名の通り、関西を拠点にソフトウェアの開発や販売を行なっていたが、同社の研究開発部門の担当者が米国のカンファレンスでネットスクリーンと出会ったことが、その後の同社の方向性を大きく変えることになった。
もとより日本での展開においては、そもそも市場があるのか、ソフトウェア会社で販売やサポートができるのか、など日立西部ソフトウェア内でも侃々諤々の議論が戦わされた。設置や操作の容易なハードウェア型のアプライアンスは、システムインテグレーション費がとれない。こうした点も、ソフトウェアの開発・販売を生業とする同社が抱える懸念であった。
しかし、当時の経営陣のアグレッシブな決断で、ソフトウェアという囲いをあえて破って米ネットスクリーン製品展開を図ることになった。同社はネットスクリーンとの契約にこぎつけ、1998年12月に日本での販売を発表した。開始当初からプロジェクトを率いていた野村雅光氏は「当初、ソフトウェアだったルータがハードウェア化され、現在のスイッチになりました。こうした過去の経緯を考えると、セキュリティ装置も必ずASICのようなハードウェアで動くものになっていくと信じていました。当時は賭けでしかなかったのですが、今となっては先見の明だったのでしょうか」と語る。
最初に市場投入した「NetScreen-100」は100Mbpsのスループットを実現する高速なファイアウォール・VPNアプライアンスである。64kbpsのISDNが主流の当時、100MbpsというNetScreen-100の性能は、まさに神の領域といえよう。しかも、数百万円が当たり前のファイアウォール市場において、価格も198万円に抑えた。
当初、斬新すぎる製品の壁は厚く、大手のSIerでは、まったく扱ってくれなかったという。しかし、新しものが好きな製造業の会社や公共系、あるいはこれから伸びていくという新しいセキュリティ系のベンダーは少しずつ扱うようになってくれた。
また、雑誌等の広告もかなり打ち、当時始まったばかりのWebでの情報提供も積極的に行なった。「サイトのデザインはあまりよくなかったですが、ファイアウォールってなにか、セキュリティの基本を明確に書くことに徹しました。更新も相当頻繁にやっていましたね。これが受けたみたいで、メールの問い合わせが殺到しました」(野村氏)。こうした地道な努力が実り、徐々に製品の知名度も上がっていった。
次ページ、「日本でのターニングポイントとなった2つの事例」へ続く
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