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荻上チキが語る、炎上の構図

2009年05月08日 17時00分更新

文● ワクテカ編集部

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ニコMADと政治運動・祭りの構図とは?

荻上 ニコニコ動画では、政治的なネタもそこそこ盛り上がっていますね。方法論自体は、役割としては旧来のまとめサイトと変わらないんですが、機能の面での違いがあらわれてきます。

 ネット住民がマスコミの偏向報道を批判するとき、マスコミに対して「マスコミ用MAD」と揶揄することがあります。「現実から切り取った画像からMADムービーを作っている」という意味ですね。

ニコニコ大百科より「マスコミ用MAD素材」項目

 そういう言葉をわざわざ選択するように、ネット上の政治動画の多くも大体がかなり「偏向した」MAD動画なわけですが、それ自体は多くの「まとめサイト」も同じです。

 いずれも確証バイアス*1 が非常に高く「公正」であるとはお世辞にも言えないものの、ある結論へと自ずと導きやすいような「争点」を作ろうと計算されています。

 「MADでMADに対抗する」ということ。それは、ハイパーリアリティをめぐる抗争に、動画が使えるようになったということですね。それは当然プロパガンダや情念の闘技にも利用され、特定団体の政治活動行動の下で拡大・再生産されてもいます。

 こうしたMAD文化の文法は、古典的な物語やアジビラのような政治手法、流言の構築プロセスなど、これまでの集合行動による「共像」*2 構築のプロセスと非常に似通っていますね。

 MAD文化の例としては、「初音ミク」のようなケースばかりが好まれて語られがちですが、そうした観察の言葉が、麻生首相の応援PVや「頭がパーン」による宗教団体批判のような、具体的政治や排除につながるようなケースを一切無視し、「文化的可能性」とかを無理やり論じようとする「解釈ごっこ」で終わっているのは非常に残念です。

「頭がパーン」タグの付いたMAD動画の一例

 どのようにバーチャルに見える世界でも、政治や経済といった環境的条件や、剥き出しのコミュニケーションからは逃れられません。

 よく言われているように、ニコニコ動画は、感情の共有には向いているけれど、議論には向きません。特に動画であるがゆえに、それ自体はアジテーションには使われやすいけれど、ディスカッションにはあまり向きません。

 YouTubeと違って、匿名による短文コメントしか表示されにくいため、ニコニコ動画に上がっているMAD動画に匿名で反論しても効果がほとんどないんです。匿名空間で積極的に付和雷同すること自体を「作法」として楽しむ空間だからこそ、水をさすようなコメントはあっさりスルーされてしまうんですね。

 そこには単に「扇情的/理性的」といった対比で済ませることは出来ない、独自のゲームのルールが働いているんです。

 「ニコニ広告」がリリースされたことで、政治動画がランキングに入りやすい環境も作られました。意図的なもので言えば、たとえば「頭がパーンで100位全部埋めよう(parn100)」のようなことは今までもずっと続けられてきたわけなので、これからも続いていくでしょう。

 ある種のエコチェンバー(自分に都合のいい言説だけを選択し、多くの人と同調することで声を大きくしていくこと)の持つ快楽性は、なくすことは不可能ですから。

*1 確証バイアス: 先入観から他者を観察し、自分に都合のいい情報だけを集めて先入観を補強する現象のこと。

*2 共像: 特定の情報の集積によって生まれる共通のイメージ(像)のこと。

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