詳しいトーク内容については、ワイアードビジョンや本サイトからも読めるようになるはずだが、司会を担当した私自身とても刺激されるお話だった。久夛良木氏がテレビをどう見ているかは誰もが気になるところだが、同氏のビジョンを私なりに解釈すると、次のようになる。
最後の「グーグルが文字でやったのと同じこと」というのは、気になる人も多いだろう。私も、「それは動画検索のことですか?」と質問したのだが、どうやら「世界中のすべての情報をインデックス化してアクセス可能にする」というグーグルの基本理念に近いところのようだ。
「あらゆる画面がテレビになる」も、私のようなパソコンが本業の人間には聞き捨てならないフレーズである。そこで、久夛良木氏に「パソコンとテレビは同義語になるのか?」と問い返したところ、なにをかいわんやともとれる切り返しだった。たしかに、すでに私たちはパソコンの画面でテレビを見ている。最強の映像機械を王位継承的に“テレビ”と呼んでいくというような話だとすると、逆に「未来のパソコンはテレビだ」とも思えてくる。
映像はいままで、記録した後は途中での編集や加工はあっても、リアルタイムで自在にやれることは限られていた。ところが、最近では顔認識や自由視点テレビ※1、映像の自動生成やオーギュメント・リアリティ(拡張現実)など、映像まわりのテクロジーがにぎやかだ。そして、テクノロジーはテクノロジーと協調して加速される。Pixiv(関連記事3)記事にアップする1枚絵のような感覚で、いずれは誰もがゼロから動画をホイホイ作れるようになる。映像を、いまの文字情報のように扱えるコミュニケーションが可能になったら、確かにパソコンをテレビと呼んでしまいそうだ。
ひさしぶりに、「未来のパソコン」の話に関係するお話ができた気がして(そう感じていたのは私だけかもしれないが)楽しかった。私的にも盛り上がれたセッションだった。テレビのお話としても、「テレビ局がどう生き残るか」とか「大手電機メーカーの決算がどうである」とか「広告費の落ち込みがどうである」とか、そういうところからは見えない、ピュアな未来が垣間見られたのではなかろうか? そして、テレビというのは人の情緒性や記憶や感性にかかわる、「海馬のための機械」ともいうべき大変な機械なのだということも再確認できた。