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HPコンパック合併のキーマンが、現場を退く

2007年01月15日 18時33分更新

文● 遠竹智寿子

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日本ヒューレット・パッカード(株)の代表取締役副社長 馬場真(ばば まこと)氏(62歳)が定年を迎え、2006年12月31日付けで退任した。1996年7月にコンパック(株)に製品統括担当バイス・プレジデントとして就任して以来、タンデムコンピューターズ、日本DEC、そして日本HPとの3度の合併を経験しながら、一貫してITビジネスに携わってきた人物で、プレス関係者からは、発表会の席上で、ときとして“ポロリ発言”がある、愛すべきキャラクターとして隠れた人気があった。

同氏のパソコン業界での歩みを、コンパックの歴史とともに振り返ってみよう。

日本ヒューレット・パッカードの代表取締役副社長を12月31日付けで退任した馬場真氏

馬場氏は、早稲田大学卒業後、AUDIO VISION INTERNATIONALに入社し、その後28歳でフランスに渡る。ソニー元会長の盛田昭夫氏、ヨーロッパソニーの総支配人である鈴木玲二氏といった人物との出会いにより、1972年にソニー・フランスに赴任した。1979年にソニーに帰任後、1985年にはソニー・コーポレーション・オブ・アメリカに赴任し、1988年より同社のバイスプレジデントを務めた。その後、ソニーの映像機器、コンピュータ機器の営業部門に携わった後、業界のまったく異なる大手オフィス家具メーカー・日本スチールケースの代表取締役社長兼CEOに就き、約2年後、当時のコンパックへの入社となる。Windows 95の流れを受けパソコン業界全体が新たな動きを見せていた96年。馬場氏52歳の頃だ。

社員ひとりひとりと握手する馬場氏
パーティ終了後には一人ひとりと固く握手、社員からはサインや記念写真を求められる一幕も

そのころのコンパックは、国内のパソコンメーカーに対抗する形で、外資系ならではの“低価格戦略”を打ち出し、次々と買収を行なうなどアグレッシブな展開を次々と図っていた。だが、2002年に起きた米国本社の合併で、一転して買収される側となり社内は騒然となる。

当時、IT業界でも話題となったこの合併騒動の中、米国のアナリストから“パソコン事業のスピンオフ”説なども持ち上がっていたパソコン事業だが、馬場氏は、合併後の日本HPのダイレクトビジネスの立ち上げや東京・昭島事業部でのPC国内生産への強いこだわりを持って、積極的にその拡大に取り組んできた。一時は閉鎖の危機が危ぶまれていた昭島工場は、いまやアジアナンバー1の生産効率を達成するほどにまで成長を遂げている。現在、HPのPCビジネスはワールドワイド市場においても好調で、2006年7~9月期のPC出荷台数世界シェアナンバー1* を獲得している(出典:IDC,Worldwide Quarterly PC Tracker,Q3 2006)。

馬場氏は当時を振り返り、「タンデム、DECとの合併を勧めてきたコンパックが、今度はHPに吸収合併される。いったいどうなってしまうのだろうかと両社の社員が不安になっていた。だが今は、4年前には想像もできない成功を収めている。それまで苦労を共にしてきたコンパックの仲間たちと新しいHPの仲間たちとタッグを組んでやってきた中で、私自身が本当に皆さんに支えられながら成長できた充実した時間だった。HP社員の皆さんも、元コンパック時代からかかわってきた皆さんにも心から感謝しています。皆さんにはそれぞれの立場で、これからも誇りを持って業界を盛り上げていっていただきたい」とコメントした。

今後については、「家庭に戻り、地域や会社以外の社会との時間、関わりを大事にして過ごしていきたい。新たな人生でも、これまで同様、新しいものへの好奇心と共に向上心、情熱を持ち続け、いつまでも“青春“を過ごしていきたい」と話す。

40年間業界のど真ん中で活躍してきた馬場氏。60歳の定年を2年延長し、62歳で勇退することになったが、その引き際は波乱万丈な人生とは対照的に、馬場さんの人柄がにじみ出た穏やかで和気藹々としたものだった。弱肉強食なパソコン業界では、レイオフやスピンオフなどドラマチックな引き際を迎える幹部も多いが、社員みんなに笑顔で送られての円満退職。こういうIT業界の退き方ができたのも馬場氏の人柄によるものが大きいのかも知れない。



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