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【こちら秋葉原一丁目ホームページ】Act.0005「“新世界菜館”主人が見た神田の過去・現在・未来」

2005年08月25日 22時10分更新

文● 遠藤諭

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孫文も、周恩来も、神保町が拠点だった

3店舗の内の1つ、手延べ麺の店「上海朝市」。手作り肉まん&あんまんも人気

【傅】戦前、父が昭和の初めに中国の寧波から神田に来ました。ここら辺は昔は中華街のような様相を呈していまして。“すずらん通り”、“さくら通り”を中心に、中国料理の“維新号”とか“中華第一楼”とか“咸陽楼”とか、たくさんありました。横浜の地区には広東出身の人が多くて、神田には寧波という港町出身者が多かった。寧波は長崎のような感じで、遣唐使・遣隋使の時代から日本との貿易の場所でした。遣唐使・遣隋使たちは寧波の港から西安に向かって経典を取りに行っていました。僕の故郷です。
 今は、もう大変なくらい発展しています。場所は上海から南に200km下ったところにあります。上海は堆積台地でして、長江がどんどん浅くなっていて大きな船が入れないんです。寧波の沖に舟山列島があります。そこに5万t級の船が入れるコンテナバースが26バースあります。5万t級は水面から16メートルも沈むんです。その深さがないと入れない。大型船は寧波港に入って、そこから振り分けて上海に入ってくる。

――鉄鋼も? 日本は材料系が中国のおかげで急に景気が良くなって。

【傅】入ってきてますよ。で、父が14歳くらいで日本に来て、俎板橋あたりの雑貨屋で働いていたようです。ここら辺は大学が多くて、中国の留学生が日本に勉強に来るのに集まってました。

――中華街っぽく集まっていた理由はそのためなんですか?

【傅】中国のシステムの1つとして、誰かいると頼ってくる傾向があります。しばらくそこで居候して、それから新しい仕事を始めるなり、勉強して帰るなり。そういう店が何軒もあったんです。

――もともといて、大学もあるからさらに増えていく、みたいな。

【傅】ただ、留学生というのはお金がない。西神田に留学生を預かる宿舎があったんです。“日中友好会館”ですね。その裏が寮だったんです。今もありますね。そこへ周恩来や孫文なんかも寄っていたんです。留学生はお金ないから、レストランやっているとほとんどタダ飯。中国の人には互助の精神というのがあって、昔はね同郷の人を助けるのは当たり前でした。そこで働き口を見つけちゃ、あるいは場所が見つかると中華屋を始めて、どんどん増えてきた。
 今回雑誌の「神田」で原稿を書くために調べたら、昔の警察の職業便覧の中に、大正昭和の時代から、シナ料理屋がズラーっとあったんですね。それも今、国会図書館に保存されているんですけどね。

――では、都内の中で中国料理屋が多いのが、実は神田ですか。神田でもどこら辺ですか?

【傅】この地区です。ウチは戦後ですからね遅いです。戦前からあったのは、“揚子江”さん、“中華第一楼”さん、“維新号”さん、“漢陽楼”さん。昭和初期の資料に、新聞折り込みで中華屋の宣伝も残っていました。16店舗くらいの屋号が書いたチラシがあったのでびっくりしました。昭和初期にもうこんなことをやっていたんだ! と。

――神保町の歴史といえば岩波新書の「神田」に連載されたものだと思うんですけど、“東西書肆街考”というのがあったんですよ。神保町の地図が載っていて、本屋さんについて書かれていたものでしたが、中国料理屋さんについては書いてなかったと思うのですが。

【傅】友達に地図集めが好きなのがおりまして、聞いてみたら昔の神保町もあるというので借りました。屋号も全部書き込んでありまして、助かりました。書くとなると裏取れないとダメでしょう。オヤジは20年近く前に亡くなりましたし、お袋の記憶は、時代交錯があるのでかなり危ない、と(笑)。困っていたら、良いものと出会いました。
 だいぶ昔から学生街や本屋街であったことは確実ですね。

――昔からね。江戸末期からですよね。

【傅】教授たちは権威が高く豊かな人が多かった。学生たちは金がない。両極端だった。

――中華街になったのは、いつ頃なんですか?

【傅】昭和の初期です。昭和の初期に入ってきたのを“老華僑”と言い、古い華僑を指します。高度成長期に入ってから日本に来た人たちは“新華僑”です。ハッキリ分かれます。勉強とか、新しいビジネスのために来ました。

――出身地が違うのですか?

【傅】違いますね。東京は寧波系が多いです。神戸も寧波が多くて、横浜はガッチリ広東。長崎は北京の人が多い。何人かいると頼って行くという傾向があるんです。
 システムの1つに「無尽」というのがあって、非常に合理的なものの考え方で、1人が店を出したいときにはみんなが集まって、資金を出し合う。毎月元本を返済していくのですが、出資者の中でお金がすぐ必要な人は早く受け取るし、必要ない人は後から受け取る。でも金利は後の方が高くなるという合理的な方式です。だから、お金がなくてもすぐ店を出せましたね。今はそれはなくなりました。
 私も神田は本の街だと思っていたのですが、中華街だとわかっていろいろ聞いて回ったのですが、昔の世代の方に聴くと面白かったです。
 孫文は仙台にいきましたけど、拠点はここなんです。必ずここに寄ったんです。ここに寄って準備をしてから、どこかへ出て行くと。コミュニティがありましたからね。
 だからレストランをやっていると、留学生のためにやると全然儲からない。人は集まるけどタダメシ食ってんですから(笑)。

――“新世界菜館”も、タダで食わしていたんですか?

【傅】オヤジは、自分が苦労したせいか飢えるということを理解していて、相当やっていました。いろんな人から「オヤジさんは、人のことをよく助けていたなぁ」という話を聞きます。昔は、専修大学前あたりで小さな店をやっていました。疎開したときに日本の方がやっていて、そこから譲り受けたという話を聞きました。

――こちらに移転してきたのはいつですか?

【傅】戦中に専修大学のところで店を始めて、こちらには戦後の昭和21年です。向こうは借りていて任されてやっていただけです。オヤジは腰が悪くて、それで店を出すようになったんです。雑貨屋をやっていたのが、ソバ打ちを教わって、腰を痛めてできなくなったと聞いています。
 僕は、建築家を志望していたんです。



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