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インターネットのサービスでは業界内の自主規制と国際連携が重要--第15回コミュニケーション・フォーラム

1999年11月24日 00時00分更新

文● 若菜麻里

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横浜市のパシフィコ横浜で開催された“第15回コミュニケーション・フォーラム”。その2日目である11月19日には、メディアの融合におけるヨーロッパの政策に関する基調講演と、メディア産業の再編やインターネットでの表現の自由に関するセッションが行なわれた。本稿では基調講演と、表現の自由に関するセッション内容をレポートする。

“メディアマティクス”への規制には越境型の連携が必要

オーストリア科学アカデミー組織改正と欧州統合研究部副部長のミハエル・ラッツァ(Michael Latzer)氏は、基調講演で、“ヨーロッパにおけるメディアの融合と動向”についてスピーチした。

「1980年代からヨーロッパでは、自由化やグローバル化が進み国家連携が重要視されている」と語るラッツァ氏
「1980年代からヨーロッパでは、自由化やグローバル化が進み国家連携が重要視されている」と語るラッツァ氏



ヨーロッパでは、'97年以来、メディアの融合という現象が、通信分野ではEUの最優先課題で、放送の自由化よりもはるかに複雑な問題だととらえている。電気通信とメディアの融合を“メディアマティクス”とラッツァ氏は呼んでいるが、それにより政治や経済構造に大きな変革がもたらされつつあるという。

「政策を作る側としては、どこまでがメディアでどこからが電気通信かという従来のようなカテゴリー分けが難しいのが問題だ」

例えば、「誰がインターネットのポルノのコンテンツに責任を持つのか。インターネットはメディアサービスとして分類され、プロバイダはその中身についても責任を持つべきなのか。ウェブキャスティングは放送サービスなのか。放送である場合、どのコンテンツが規制対象になるのか。さらに、電子商取引のデジタル経済により、ビジネスの仕組みやマーケットに対する取り組みも変わってくる」と、ラッツァ氏は説明した。

ヨーロッパの市場構造を考えると、インターネットベースのサービスに対して、「国境を越えた政策の調和が重要だ。電気通信の規制の見直しとともに、国家間の連携が求められている。またコンテンツの規制やプライバシーの権利などにおいては、国家による規制以上に、業界内での自主規制が大切だ。これも越境型で連携する必要性がある」と、今後も引き続きメディアマティクスは欧州委員会の最重要課題であると強調した。

青少年に対するインターネット上のポルノの規制はどうあるべきか

セッション“インターネットと表現の自由”では、インターネット上におけるポルノ表現の扱いをめぐって、法律や大脳生理学的な見解から議論が交わされた。パネリストは、ニューヨーク・ロー・スクールの法律学教授で、市民団体ACLU(American Civil Liberties Union)会長のナディン・ストロッセン(Nadine Strossen)氏、国際大学グローバル・コミュニケーション・センター副所長の青柳武彦氏、広島大学法学部助教授の鈴木秀美氏、司会は、慶應義塾大学メディアコミュニケーション研究所教授の林紘一郎氏。

ストロッセン氏が会長を務めるACLUは、インターネット上の表現の自由を巡り、米国で訴訟なども起こしている人権団体だ。

ACLU会長のストロッセン氏。「http://www.aclu.org――で制定法や最高裁判所の訴訟記録まで公開したので見て欲しい」
ACLU会長のストロッセン氏。「http://www.aclu.org――で制定法や最高裁判所の訴訟記録まで公開したので見て欲しい」



「ACLUだけでなく、各国の組織、また日本でもJCLUという団体が人権の自由のために活動している。言論の自由やプライバシーの保証は、国際人権法で保証され、各国の法律においても保証されているためだ」と、ストロッセン氏は前置きし、最近の訴訟について、論点などを説明した。ACLU側の主張は常に判事に支持され、裁判に勝ち続けているという。

例えば図書館で、青少年に害があるコンテンツにアクセスできないようフィルタリングソフトを導入するという問題に対して、「フィルタリングソフトで、例えば“胸”という単語をブロッキングすると、“鶏の胸肉”や、“乳ガン”までブロッキングする。受け手が成人なのか子供なのか、またその単語をブロッキングするのが適当なのか、フィルタリングソフトの機能では判断できない」

「政府官僚が、図書館でのインターネットアクセスについて、青少年に対して“有害な”コンテンツのブロッキングを推奨しているが、一部の国民(成人含む)は、図書館でしかインターネットが利用できない。そこでブロッキングをされるのは、例えば図書館の蔵書が一部取り除かれたのと同じである」と、裁判で反駁しているという。

「政府は、サイバースペースに対し、より言論の自由に制約を加えるべきという立場をとっているが、政府に対して権限を与える方が、より害がある。何を見たり聞いたりできるかという自由は保証されなければならない」というのが、ACLUの中心となる主張だ。

あいまいな“社会の共通認識”という定義

鈴木氏は、インターネット上の有害コンテンツの問題として、まず、日本の法律では、何をもって“有害”とするかがあいまいであると指摘した。

例えば、岐阜県が有害図書を指定し販売を規制する青少年保護育成条例を巡る裁判では、'89年の判決で、「社会共通の認識に立って規制が必要。条例は表現の自由に違反しない」と合憲と判断されているが、「本当にそれが“社会共通の認識”なのか、という問題がある」

広島大学教授の鈴木氏。「インターネットではユーザー間やプロバイダ間の自主規制が法的規制以上に重要」
広島大学教授の鈴木氏。「インターネットではユーザー間やプロバイダ間の自主規制が法的規制以上に重要」



表現の内容を規制する法律には、刑法175条(わいせつ表現)、児童買春・児童ポルノ禁止法(チャイルドポルノ)、福岡県青少年健全育成条例等(インターネットの有害コンテンツ)があり、また'98年に改正された風俗営業法では、わいせつ画像の発信停止や削除について、プロバイダーの努力義務が定められている。

外国の例として、ドイツでも日本と同様、ポルノグラフィーの規制やプロバイダーへのコンテンツに対する責任を定めていることを説明した上で、「ドイツは青少年保護を目的に、表現に対して有害指定をするための専門家がたくさんおり、社会的なコンセンサスにも蓄積がある。日本では、そういう基準があるとは言い難い。雑誌でもかなり際どいものがある中でインターネットだけ規制できるのか。規制できても実行性を確保できるのかという課題がある」と語った。

個人の責任能力はマルチメディア情報の増大で崩壊する?

青柳氏は、表現はもっと規制されるべきという持論で、論旨を展開した。「活字媒体やインターネットは、自分の意思で見られるため、逆に放送よりも厳しい規制をすべきというのが私の意見だ。学校で話題になれば、青少年がみんなして暴力的なウェブページを興味本意でのぞきにいくという可能性があるなど、インターネットの危険性は放送のそれを超えるため、規制を厳しくしてもいいのではないか。個人の責任能力が未熟な未成年には、自由を制限するべき」と考えている。

国際大学グローバル・コミュニケーション・センター副所長の青柳氏。「自由とは、他の価値とのバランスにより成り立つべきもの」国際大学グローバル・コミュニケーション・センター副所長の青柳氏。「自由とは、他の価値とのバランスにより成り立つべきもの」



それに対し、ストロッセン氏は、「子供の保護が大切であることについてはACLUでも異論がない。しかし、子供を保護するために、成人に対しても表現の自由を奪うというのは、間違いだ」と反論した。「責任能力のある成人ならば、性の問題は個人のモラルや宗教上の問題であって、政府が関与するべきところではない」

そのコメントを受けて、青柳氏は、“責任能力”について、脳の三層構造の図を会場のスクリーンに映し出し、説明し始めた。

「脳は、知性を司る新しい脳と、食欲や性欲などをコントロールする古い脳、排泄や反射などの原始脳という3層構造で成り立っており、情報の種類により到達深度が違う」

「テキストコンテンツの到達深度は新しい脳止まりだが、マルチメディアコンテンツは、古い脳の無意識の世界まで、イメージをかきたてることができる。神戸の酒鬼薔薇事件やテレビ番組のポケモン事件などは、こうした無意識的感性のなせるわざである。マルチメディア情報が増えるに従い、無意識の世界も増え、情報の受け手の精神的な抑制と情動のバランスが崩れて、その結果、子供達の犯罪が必然的に増える」と主張した。

「精神の抑制機構は現実世界の社会関係において個人の成長とともに発達するもので、パソコン通信などの(バーチャルな)世界では発達しない。つまり、“責任が取れるかぎり”自由という前提は、マルチメディア情報の増加により、崩れる。だから当然規制が必要だ」

ストロッセン氏、青柳氏および鈴木氏の討論は時間いっぱいまで続き、その中で、アメリカと日本での政府に対する感覚の違いや、表現の自由に対する3人の前提の違いが露わになった。

司会の林氏は、「表現規制や個人の責任能力などは、たいへん難しい問題で、基調講演でも話題になったように、横断的・水平的な議論を続けていく必要があるだろう」としてセッションを締めくくった。

司会を務めた慶應義塾大学の林氏。「アメリカ人にとって政府は、契約により作ったという考えがあるようだ」
司会を務めた慶應義塾大学の林氏。「アメリカ人にとって政府は、契約により作ったという考えがあるようだ」

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