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桜子のビジネスリーダーズインタビュー 第6回

IT業界で働く桜子のビジネスリーダーズインタビュー

半導体産業の興隆の中で見つけたもの

2008年11月11日 04時00分更新

文● 桜子(Interviewer&blogger)

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ライターでもない、記者でもない一介の女子社員が、IT業界を含め、各界の著名人に体当たりインタビューをして話題を呼んだブログ「VIVA!桜子の超気まま日記」。ASCII.jpでは、ブロガー桜子氏に超気まま日記のASCII.jp版インタビューをお願いした。経営戦略の話よりも、もっと身近な、仕事への考え方や生活スタイルについて、桜子氏が聞く連載第6回目。

古田 稔氏

 「人間っていったい何のために生きているのかな」。

 Athlonシリーズなどで、パソコンユーザーにはおなじみの半導体メーカー、AMDの日本法人を34年前に興した古田稔氏(68歳)が40歳の頃、ぶつかった壁だった。

 幸福の青い鳥は、金銭や物質、或いは地位といったものによってのみ、手に入れることが出来るのだと信じていた。でもそれは間違いだったと、サーヴァンツ・インターナショナル(以下サーヴァンツ)の創業者で現相談役は、静かに当時を振り返った。

古田 1964年に日本大学理工学部を卒業して、国内の部品メーカー、ミツミ電機に就職をしたんですよね。当時はトランジスタラジオがブームになり始めた頃で、その部品を作っている会社は急成長のただ中で、一部上場もし、私はそこの研究所で半導体の研究を始めました。

 ところが会社は多角経営に手を出し、研究開発の投資が続けられない局面に立ったため、新天地を探した。

古田 テキサスインツルメント(以下、TI)が日本に上陸したというニュースを聞いて1967年に28歳でTIアジア(現日本TI)に移り、テキサス本社へ半年間、研修を兼ねてぶち込まれた。TIは半導体の第一人者だったから、日本から大勢の人が訪問に来られたんですよね。

 ダラスを拠点に国内メーカーの経営陣との交流やビジネス絡みの付合いが始まった。TI勤務は氏にとって大きな資産となり、その後外資系の半導体メーカーから次々とスカウトが入っていく。

 ここで半導体のメッカである“シリコン”・バレーの背景を少し補足したい。シリコンバレーの歴史は、産業としてトランジスタの発見(1947年 ベル電話研究所)に端を発し、人としてトランジスタ発見者の一人だったウィリアム・ショックレーの存在が欠かせない事柄である。

 彼がレイセオン社(当時最大の半導体メーカー)に野望を持って転職したがその夢が叶わなかったことが半導体の歴史を変え、故郷カルフォルニア州パロアルトに戻ったことからシリコンバレーの幕は開いていった。

 1956年、ショックレーが作った半導体研究所(のちのショックレー・トランジスタ社)には多数の優秀な技術者が集まり、そこから1957年フェアチャイルド・セミコンダクタ社(以下、FC)が誕生した。

古田 FCに移ったTI出身者が、日本にオフィスを作るから手伝ってくれと。それで1970年にFCへ行き、TDKと一緒にTDKFCという合弁会社を作った。

 ちなみにFCの第一工場は今日アメリカの重要文化財として保存されているのだが、そのFCから、さらに現在の半導体業界を代表する世界的企業が分離した。1つがIntel(1968年設立 以下、インテル)であり、もう1つがAMDである。

 古田氏は日本AMDの立ち上げを行い、社長として5年勤務の後、退社した。

結局、自分はいったい何をやっていたのだろう?

古田 この頃ですかねえ、僕が信仰を持つようになったのは。AMDをゼロからスタートして一応あるレベルに持っていって、やれやれと思っていた。だけど一所懸命やって手放してみると、まあ結局、自分は一体何をやっていたのだろうという思いが沸いてきて。人間って何のために生きているのかな、と。

桜子 ステップアップしていけば、毎日楽しみが溢れているじゃないですか。

古田 それがさ、やっぱりだんだん楽しくなくなってくるんだよ。毎日ごちそう食っていても飽きてくる。満足感が得られない。

桜子 じゃ、悪さもいっぱいしましたか?

古田 悪さ……。しましたね(笑)。

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