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日本のアニメーションを代表する監督5人、杉井ギサブロー監督、りんたろう監督、出崎統監督、高橋良輔監督、富野由悠季監督が広島に集結した!

五大監督かく語りき……「私が手塚治虫から学んだこと」

2008年09月02日 20時00分更新

文● 柿崎 俊道

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手塚治虫作品をどう見るか?

片山
 それでは、次の質問です。手塚治虫作品をどう見るか? これは先生が手がけ、皆さんが関わったアニメーション、そして、先生の漫画に関してです。富野監督からお願いいたします。

手塚眞氏と片山雅弘氏

手塚眞氏と片山雅弘氏

富野
 虫プロに入社した1週間以内の時に天井裏の試写室で『ある街角の物語』を見せられました。それの時の印象と、週刊ペースで俗気本まがいのアニメにもならないようなものを作っている漫画家の心とは何なんだろうか、とは本当にわかりませんでした。
 そして、基本的にアニメーションを作るということは制作資本というものが大変にかかる表現媒体なんです。ということは、まずビジネスとして成立していなければ次の作品が作れないという絶対的な身命を持っているということです。手塚先生が児童漫画の漫画家として、世に出てお金を稼ぐことをおぼえてしまった。先生はその瞬間に先生の中にある本当の意味でのアーティスティックな衝動を自覚されたのではないかと思っています。そうなりますと、コミック、アニメという表現媒体が持っている問題を個人が抱え込むことになります。その不幸が虫プロダクションというものを生みもしたし、それから、虫プロダクションが衰退していった原因でもある。それから現在まで解消されずにアニメを目指す、コミックを目指す若い人が自分のアーティスティックな心と、それから表現をとにかくきちんとしたものを作りたいと思いながら、制作資金の面で悩みながら公開する問題、状況を作り出しているということです。で、この問題は、これ以後も永遠に続く問題だと思っています。じつはその問題を一部の制作者とか一部のアーティストに任せるのではなくて、大衆のものにしてしまった、大衆にこの問題を突きつけたというのが手塚治虫ではないのかな、とじつは今日改めて、こういうフェスティバルに参加して実感するようになりました。

片山
 ありがとうございました。富野監督はご多忙の中、ここに開催されているすべての会場をまわられて、広島国際アニメーションフェスティバルを熱心に研究していただきました。次もまた来てくれますか?


富野
 呼んでいただければいつでも(笑)。

片山
 ありがとうございます。良輔監督、お願いいたします。

高橋
 手塚治虫はいろんな面がありますから、語りはじめたら、ひと晩でもふた晩でもなっちゃうんですね。私にとっては自分の漫画というものを意識したのは手塚治虫です。それから自分がアニメーションに入った時に『鉄腕アトム』というものを作っていただいて、これで産業としてのアニメーションの出発――それまでにもあるんですが、僕にとっては『鉄腕アトム』です。『鉄腕アトム』ができた途端に今までテレビシリーズがなかったのに、急にその年の終わりには4本、翌年には8本、次に16本と増えていく。そして、手塚治虫がやっていたアニメーションは少し人気が下がるんですね。そうしますと、手塚治虫に対して、もう視聴率が取れるとか取れないとかというウワサが出てくる。そうした時に、大人向けの長編のアニメーションを作りまして、これも大ヒットしました。それから業界がそういう方向を食い潰していると、手塚治虫は「24時間テレビ」の中でもって2時間という長丁場のものを作りまして、やはりこれも人気になる。
 私にとっては手塚治虫というのは、いつも開拓者であり、挑戦者であって、それを僕らのような者が後ろからついていって食い潰すと、また違う新しいものを作る。今、手塚治虫がいないところで僕らは誰をしゃぶって誰をかじったらいいんだろう、と戸惑うところがあります。もう先生はいらっしゃいませんので僕らはなんとか遺志を継いでいこう、なんとか新しいものを生み出していこうと思っている、そんなところですね。

片山
 ありがとうございます。出崎統監督、お願いいたします。

出崎
 手塚治虫という作家に僕たちは教えられ、影響を受けているんですけど、とくに僕が受けたのが――これは漫画でもそうだし、テレビの『鉄腕アトム』もそう――主人公がいつも悩んでいるんだよね。そういう漫画ってそれまでに読んだことがなくて……。僕はそういうところにすごく惹かれました。それで、虫プロに入って、自分が『鉄腕アトム』の演出をやる時には、とにかくアトムを悩ませる演出をしました(笑)。ロボットとは何か、人間とは何か。
 それが僕は手塚作品だと思っていたんですけど、先生から「いかん」と。「エンターテインメントだよ」といわれて、ちょっとわかんなくなりましたけど(笑)、僕の中にあるのは、そういう反権力というか、弱い者の味方であるということとか。主人公がいつも葛藤を心に持っていて、必死に生きている。そういう作品にいまだにとても憧れていますし、僕もそういう風に目指しているんですけど、まだまだ及ばないなあ、と思っています。

片山
 ありがとうございます。手塚治虫作品をどうみるか、りんたろう監督、お願いいたします。

りんたろう
 最初に富野君がいったことに抵触します。皆さん、ご存じないと思うんですが、1960年代に国産のテレビアニメというのは、本当に信じられないことだったと思うんです。今では皆さんはテレビアニメを見たり、いろんなアニメーションを見ているし、世界的にも日本のアニメーションは知られているわけです。そのオピニオンリーダー的な作品が『鉄腕アトム』だったということですね。つまりこれによって商業主義のアニメーションというのが、成立したのです。当然、そこから、あらゆるテレビアニメーションが次々と、『鉄人28号』とかいろんなものが出てくる時代になるんですね。
 たぶん、そういうことによって、本来、手塚さんがアニメーションを本当に好きではじめたことが、やがて商業主義に乗ることで、どんどんどんどん、手塚治虫が本来持っているものから離れて行ったんだろう、というのが僕の考えのひとつです。直接先生から聞いたことはないのですが、たぶんいろんなことを悩みながら、でもアニメーションを手放さない。でも片方は視聴率だなんだと、どんどん大きくなっていくわけです。そういう中で今度は、手塚治虫個人のプライベートが身近なフィルムを作って、なんとかアニメーションというものを自分の中でバランスをとっていたんだと思うんです。僕は……こんなことをいって背後霊で立たれると困るんですが、間違いなく先生は最後までどの作品にもきっと満足しなかったんだろうと思うんです。100%を狙って作るなんてことは当然、あり得ないわけです。
 少なくても先生はアニメーションが好きで最後の最後まで走り続けたまま、ということだけは僕は実感しています。きっと上で、相変わらずまた作っていると思いますが(笑)。

片山
 上でも苦労している方がいるでしょうね(笑)。杉井ギサブロー監督、お願いいたします。

杉井
 僕が手塚先生の『新宝島』という漫画に出会ったのは、7才の時なんです。売っていた本屋と平積みされる粗いガリ版に印刷されていた手塚先生の『新宝島』という僕の7才の記憶は、いまだにありありとカラーでおぼえているんですね。
 当時の子どもが誰でもそうだったように、手塚先生の漫画は大好きだったんです。けども、ひとつだけ、僕の中では手塚治虫作品というのは、他の漫画とはまったく違った印象で、子供心に接しているんです。どの作品もどの作品も子どもの僕にとっては映画を見ているという風な漫画で、漫画を読んでいるという感じではなかったですね。ですから、僕の勝手な推測ですけど、手塚先生って本当に漫画が好きだったんだろうか。じつは映画が大好きで、漫画を描きながらずっと映画を作り続けていたのではないか、という印象がすごく強いんです。たとえば『ジャングル大帝』という作品であったり、『ロストワールド』という作品でも、漫画が持っている構成というか、読者を乗せていくリズムが、まったく映画的だと思うんですね。
 そういう意味で、僕にとっては手塚先生の漫画というのは映画そのものです。僕自身は子どもの頃から、手塚漫画を見ながら、じつは映画の作り方を手塚漫画から教わったという印象が、手塚作品に対する僕のものです。
 ですから、そういう手塚先生が『鉄腕アトム』をテレビではじめて、いわゆる漫画を映像化したといっている。だけど、すでに先生の中では映画として動いていたものを、テレビという形で自分ができる範囲の力で映像化したのではないか、夢を果たしたのではないかと思うんです。

片山
 ありがとうございました。それぞれの監督から手塚作品の印象をお聞かせいただきました。




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