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松村太郎の「デジタルとアナログの間」 第1回

松村太郎の「デジタルとアナログの間」

Micro Presence

2008年08月19日 18時00分更新

文● 松村太郎

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人間が決定している境界


「Eupholus nickerli(ホウセキゾウムシの一種)」のMicro Presence

 アナログとデジタル──例えば、ゾウムシとそのデジタル写真は、一見同じに見えても視点(拡大率)を変えれば、まったく異なるものだとわかる。しかし、話はこれだけでは終わらない。

──例えば、データ量は大きくなるが、1枚のデジタル写真を思い切り高精細に撮影すれば、拡大しても繊毛が見えるし、細胞組織まで写せるかもしれない。ゾウムシのデジタル写真を拡大していくと実物と異なってしまうのは、人間が解像度を合理的な基準で設定しているからだ(小檜山氏)。

 つまり、デジタル写真でも、毛が見えるまで、細胞が見えるまでの解像度で撮影すれば、ブロックノイズが見え始めるには相当拡大しなくてはならない。昆虫の全体像を見たいのか、それとも細かいパーツを見たいのか、という目的によって人間が必要な解像度を設定している。そのため、目的を超えて拡大をすると、コンテンツの本質が失われるのだ。

小檜山賢二氏

小檜山氏のご自宅兼仕事場には小川が流れ、広葉樹が茂るビオトープがある。非常に心地よい空間だ。ちなみに来ているポロシャツは退官パーティー特製の記念品。胸には銀色のリアルなゾウ虫が刺繍されている

──例えば蝶を追いかける人を「蝶屋」と呼ぶが、「甲虫屋」はいない。それは、蝶の種類数(国内で二百数種)に対し、甲虫はゾウムシだけでも千種類以上と膨大だからではないか。単に人間のキャパシティーの都合によって決められているのだ。また、「災害」というときの「平時」との境目は? 「老人」と「若者」の線引きは? さまざまな境目を考えると、面白い世界が見えてくる(小檜山氏)。

 世の中に存在する対立概念には便宜上、人が境界線を引いている。しかしものごとの多くは連続的であり、人が線引きをしたとしても、その基準は時代や意見によって変化していく。デジタルとアナログという概念は、さまざまな境界が実は人が決めたものでしかないことを示し、なぜそこが境界なのか? その境界を動かすことは可能か? といった問題を意識させてくれる。


(次ページに続く)

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