塩澤一洋の“Creating Reed, Creative Mass.──大公開時代の羅針盤” 第7回
塩澤一洋の“Creating Reed, Creative Mass.──大公開時代の羅針盤”
発達と発展
2008年07月06日 15時00分更新
マネされても決して揺るがない アイデアの宝庫に至る道
無数のプロダクトが去来する世の中、似たものが出てくると、決まって「パクリではないのか」と疑いの目で見られる。例えば「パズループ」と「ZUMA」もそんな関係で、'06年9月にiPodゲームとして発売されたZUMAが、'98年から(株)ミッチェルが販売しているパズループシリーズに酷似しているのだ。
確かに、「外から螺旋状に攻めてくる敵を中心から射ち、敵の色が3個以上連続すると一気に消滅して、そのあとでさらに連鎖消滅が起こると高得点を得られるが、中心まで攻め込まれたら終了」というコンセプトは共通だ。ゲームの画面も非常に似通っている。もしパズループをマネしてZUMAが作られたとしたら、著作権侵害の可能性も出てくる。でも実際はパクったのではなく「他人のそら似」かもしれないし、本当にパクったか否かはZUMAを作った米PopCap Games社の人々のみが知ることだ。従って、ここではZUMAの出自について無用な詮索をするのではなく、著作権法の基本的なルールとその根底にある理念について考えてみよう。
著作権法は「表現」を保護する法律だ。「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」(2条1項1号)を「著作物」と呼び、これに著作権を認める。頭の中にある思想や心の中にある感情といった「アイデア」を保護するものではない。表現とは端的に言えば、他者から知覚することが可能なものだ。見る、聞く、触るなど何らかの手段で知覚できれば「表現」されたことになる。
従って、ゲームでいえばプログラムのソースコードや映像、音楽といったものが著作権の対象であり、そのゲームを司るコンセプトはアイデアにあたるため、保護の対象ではない。だから、もし誰かがアイデアを盗用したとしても、表現の部分をマネしない限り、著作権法の関知するところではないのだ。
もちろん倫理上は他人のアイデアを黙って用いることは問題だ。特に学問の世界では、他人のアイデアを自分が考えたもののように述べることは許されない。他人のアイデアに言及するときは、それが元々誰のアイデアであるかを明らかにすることが必須だ。でも著作権法はそこまで踏み込むことをしない。著作権法はあくまでも、他人の「表現」を利用するときに「許諾」を得たり、適切に「引用」することを求めるにとどまる。それはなぜか。
(次ページに続く)
この連載の記事
-
最終回
iPhone/Mac
公開の価値 -
第23回
iPhone/Mac
教養のチカラ -
第22回
iPhone/Mac
失敗の創造性 -
第21回
iPhone/Mac
肯定力 -
第20回
iPhone/Mac
自分と相手のエンジョイ -
第19回
iPhone/Mac
創造的Leopard -
第18回
iPhone/Mac
著作権法をポジティブに -
第17回
iPhone/Mac
写真は未来を写す -
第16回
iPhone/Mac
デジタルの時間軸 -
第15回
iPhone/Mac
音楽・写楽・楽校・楽問 -
第14回
iPhone/Mac
DRMのない音楽配信 - この連載の一覧へ