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2008/From Russia with Moe

灰色の目に映る日本 ~ ロシアオタク事情を聞く

2008年06月16日 11時00分更新

文● トレンド編集部、聞き手●遠藤諭/アスキー総合研究所

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なんだ、ボクらの仲間じゃん!


── Jenyaさんは、いま日本でどんな活動をしているのでしょう?

じぇーにゃ

歌手として活動するかたわら、BLACK LAGOONの発音指導などもこなすじぇーにゃ。最近はテレビの仕事も増えているという

Jenya 日本に来たのは3年前。声優になりたかった。でも今の私の力では無理。日本語で歌いたいと思って、歌手として活動しています。まだメジャーでは出てないけど。最近はテレビの取材も増えてます。あとは、ロシア語の発音指導。「BLACK LAGOON」とか「ギガンテックフォーミュラー」に参加しました。まだ言えないけど、これから放送される作品の仕事もしています。

── 今だって十分に声優ができるぐらい日本語がうまいし、声もキレイじゃないですか。で、大学を卒業してすぐ日本に来たのですか?

Jenya 大学を卒業して、しばらくしてから日本に引っ越しました。7月にちょうど3年になりますね。IT学部の最初の生徒だった。

── なんと、ボクらの仲間じゃないですかっ! プログラムも書いちゃうんですか?

Jenya 私自身はどちらかというと文系だから、SQLとか。VBとか簡単なものなら。卒業論文は、サイトをどうやって売り出して、流行させるかがテーマだった。大学のころに自分のホームページを作って、そこでアニソンのカラオケを歌ったりしていました。ドメインは「kawaii.otaku.ru」。

 それを日本人の方が見つけて、ある朝見たら、ものすごいアクセス! あまりにすごいんで管理人の人に「しばらくページを落とすよ」と言われたぐらい。これが話題になって「日本オタク大賞」をもらった。日本に来たいという夢がかなった。私は20歳で、お父さんと一緒に来たの。

── あとプロフィールを見るとミリタリーにも造詣が深いと書いてありますね。

Jenya ええ、父が軍人ですから(笑)。戦車に乗ったこともあるよ。


マイナス40℃でも、オタクは育つ


── ロシアのファンたちの活動は、日本でもテレビなどで報じられているけど、いつ頃からさかんになったのですか?

Jenya 最初はサブカルチャー中のサブカルチャーで、1995年ごろはモスクワでも200人ぐらいのファンしかいなかった。「ランマ」(ロシア・アニメ・マンガを縮めたもの)というクラブがあって、録画したテープを交換したりしていた。それがほかの街にも広がっていった。私も18歳のときに、ノボシビルスクの部長をやってた。

遠藤諭

雪の深い新潟出身の漫画家って結構多いんですよ

── ノボシビルスクって寒いんでしょう。日本でも雪の多い新潟出身の漫画家って多いですよね。

Jenya 冬はマイナス40℃。マイナス20℃は暖かい。

── そこの支部みたいなもの?

Jenya いいえ。モスクワのクラブの一部になりたくなかった。私の育ったノボシビルスクと札幌は姉妹都市。シベリア北海道文化センターというのがあって、そこで日本語を勉強した。クラブを作りたいと言ったらいいよと言われた。何か作りたいという気持ちが強かったから、絵がかけるとか、歌が歌えるとか、そういう人を集めたかった。文化センターで展示会をやったり、日本人がロシアに来ているときにイベントで歌ったりとか。


── やりますねぇ。アニメ的なパワーを秘めてるというか。

Jenya クラブの名前は、「オタク」って言うの(笑) Open Creative Anime Clubって意味。

── オタクって言葉は1980年代の始めに僕の周り数人で使われ始めたんですよ。それより前は「愚者」(ぐしゃ)って呼んでたんだけど、あんまりだよね。

Jenya えーっ(笑)。

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