零戦かんたん入門
零戦、といってもすでに今から半世紀以上前の存在で、あまりご存じでない方もいるだろう。ということでさらっと振り返ってみた。
零戦は、第二次世界大戦などで活躍した旧日本海軍の戦闘機で、「零式艦上戦闘機」が正式な名称だ。昭和12年(1937年)から開発が始まり昭和15年(1940年)に制式化されている。ちなみに「零」のいわれは、当時の軍用機は皇紀(神武天皇即位の年を元年とする暦法)の下二桁を呼び名に用いる規定があったことによる。零戦は昭和15年、すなわち皇紀2600年に採用された機体と言うことで命名されたものだ。
零戦は登場した当初、まさに最強戦闘機にふさわしい存在だった。初陣となる日華事変(日中戦争)時の撃墜比率は、零戦の損害ゼロに対し中華民国空軍機27機撃墜という驚異的なものだった。もちろんこれはベテランパイロットが搭乗しているという条件があっての成績だ。さらに日米開戦に伴う太平洋各地での戦いも、緒戦では米軍機と零戦の撃墜比は3:1とも4:1とも言われている。
ただし、零戦は優れた性能を持っていた半面、防弾装備がおざなりされており、それが米軍に見抜かれ大戦中盤以降は致命的な弱点となった。ただでさえ人的資源でも乏しい日本海軍航空隊は、防弾装備が不十分なため、優秀な熟練パイロットを次々と失い、新人パイロットはベテランになる機会を与えられぬまま倒されていった。
大戦中盤以降、米英などの連合国側は強力な機体を開発し次々と投入していた。それらの戦闘機は開戦当初に比べエンジン馬力が倍増しているなど、大幅に性能が向上したものになっていた。もちろん日本側でも、同様に後継機の開発を行なっていた。たとえば日本陸軍では三式戦飛燕、四式戦疾風などを戦線に投入し、連合国側戦闘機の進化に対応していた。しかし日本海軍は零戦後継戦闘機の開発が遅れてしまい、紫電改などの投入でなんとかしのいでいる状況だった。結果的には日本海軍は零戦を最後まで主力戦闘機として使い続けることとなった。なお、日米の撃墜比率だが、一説によると大戦後期には零戦と米軍のF6F戦闘機で19:1になっていたと言う。
そしてついに昭和19年(1944年)以降、零戦は特攻機としても用いられるに至った。
このように零戦は、当初「不敗神話を持つ無敵戦闘機」として登場したものの、最後は特攻への投入などから「時代遅れとなってしまった悲劇の戦闘機」として語られることが多い。これらの要素が時代を超えて零戦に人々を引きつけるものとなっているのではないだろうか。
では、次ページからは実際に零戦を展示している博物館を紹介しよう。
(次ページへ続く)