そして賃金は1割以下になる
こういう錯覚は、経済学で事後の正義として古くから知られている。例えば、借家人が立ち退きを迫られたときに、事後的にはその権利を守ることが人道的に見える。しかし、借地借家法で借家人を立ち退かせることができなくなったら、家主は借家を供給しなくなる。事実、日本の賃貸住宅の供給は少なく、家賃は高く、質は悪い。
つまり事後的な個別のケースでは正義のように見えることが、事前のインセンティブをゆがめ、結局は弱者を苦しめるのだ。最近では、貸金業法の改正で上限金利を引き下げた結果、サラ金の融資額が2割も減り、借りられなくなった人が闇金融に流れている。これも規制が資金供給を減らすという、市場への波及効果を考えない事後の正義の生んだ官製不況だ。
さらに、こういう規制強化はハイテク産業の空洞化を促進する。国際競争の激しいPDPのような分野では、契約社員を高コストの正社員にするより、業務を中国の工場にアウトソースするほうが安いからだ。最近は、中国の工場で雇われる日本人も増えているが、その賃金は日本の1割以下である。こうして温情主義によって日本から雇用は減り、契約労働者の年収は激減するのだ。
労働市場を柔軟にすれば生産性が上がる
これはハイテク産業の立場からは必ずしも悪いことではない。規制の多い国から企業が脱出することは合理的であり、その企業の採算は向上するだろう。しかし近視眼的な規制強化が、日本から競争力の高い企業を流出させ、ハイテク産業の雇用機会を減らし、結局は日本人全体を貧しくするのだ。
真に労働者の待遇を改善するには、過剰に保護されている正社員の解雇規制を緩和し、正社員も非正規社員も同じ雇用条件にすることだ。それは短期的には正社員の解雇を増やすかもしれないが、雇用調整が柔軟にできるようになれば、企業は派遣や請負契約ではなく、雇用契約で労働者を雇うようになるだろう。それによってハイテク産業も国内に残り、労働者は技能を蓄積できるようになる。
そして斜陽産業から成長産業へ雇用が移転されれば、(先進国で最低水準の)日本の平均労働生産性が上がり、企業収益も上がる。そうすれば労働需要が増えて、失業率が下がる。これは1980〜90年代に英米で観察された変化だ。こうした変化には時間がかかるが、その調整を延ばしてもコストが増えるだけだ。避けられない変化は、なるべく早く実施したほうがよいという教訓は、90年代の金融業の経験で、嫌というほど学んだはずである。
筆者紹介──池田信夫
1953年京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。1993年退職後。国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は上武大学大学院経営管理研究科教授。学術博士(慶應義塾大学)。著書に「過剰と破壊の経済学」(アスキー)、「情報技術と組織のアーキテクチャ」(NTT出版)、「電波利権」(新潮新書)、「ウェブは資本主義を超える」(日経BP社)など。自身のブログは「池田信夫blog」。
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