人体を伝送路とした通信技術は、各社から実用化を目指して開発が進められている。 その中でも4月23日に製品化が発表されたNTTの「RedTacton」について、その仕組みと利用シーンについて解説する。
人体通信とは
今回紹介する通信技術は、無線や赤外線とは異なり、人の体の表面を通信経路として用いる技術だ。いわば人の体がケーブルとなり、握る、踏むといった動作によって自動的に端末間の通信経路が確立され、離れれば終了するというものである。ちなみにNTTの「RedTacton」という名前の意味は、触れることで通信が発生し、さまざまな作用が起こることから、“Touch”と“Act on”が元になっている。
「人体通信」という言葉で表わされることがあるので誤解を招きやすいが、正しくは人体近傍通信といい、人間の体内に電気信号を流して伝達するものではない。伝達経路として用いられるのはあくまで人間の体の表面である。そして、伝達可能な範囲は手や足が接触した部分だけではなく、体表面から数センチメートルの範囲でも通信できる。体の外側に電気信号をまとっているようなイメージだ。
この人体を伝送路として利用する人体近傍通信技術(Intra-body Communication)は、MITに在籍していたトーマス・ジマーマン氏が1996年に提出した論文から 始まったものだ。
NTTのRedTacton
ではRedTactonの技術をもとに、人体を伝送経路とする通信の仕組みを解説しよう。この仕組みは電界を発生する技術と、その電界を検出する技術によって実現する。
RedTactonでは、データ信号の媒体として電界、信号の検出方式としてフォトニック(光子)電界センサを採用している。電界とは簡単にいうと空間へ広がっていく静電気の微弱な電圧である。これまでに電流や電圧を信号として採用した仕組みがあったが、通信距離は数10センチメートルで、速度100kbpsと低速。雑音が多いものであった。
通信するためには、まずトランシーバの送信電極によって人体表面に電圧をかけ、電界を発生する必要がある(誘起)。体表面に広がった電界を受信電極で取得し、フォトニック電界センサで読み取るという仕組みだ(図1)
このフォトニック電界センサは、本来LSI(大規模集積回路)の内部の信号を計測するために開発されていた。これは、電圧の変化によって光学的な性質が変わる電気光学結晶と、その変化をレーザー光で検出するものだ。LSIの内部の構造のように、信号線とグランドが離れて設計されていると、そこで発生する電界を計測するのが難しく、より精度の高い計測方法が必要であったようだ。
これがなぜ人体に応用できるかというと、人体は電気的な視点で見るとLSIと似た構造をしているからだという。信号線は人体に相当し、グランドとなるのは大地である。信号線と距離が離れたグランドという関係が似ているうえ、さらに大地に逃げやすく不安定で小さな出力の電界を検出するためには、このフォトニック電界センサがうってつけであった。
なお、RedTactonの理論上の通信速度は10Mbpsであり、TCP/IPを用いた半二重通信である。通信デバイスは、送受信可能なPCカード型トランシーバや10BASETのLANインターフェイスを持つハブ型トランシーバ、送信のみに使うカード型の試作機がある。また、低コストなオール電気版通信デバイスの商品開発も進められている。
RedTactonの利用シーンは?
本記事を作成するにあたって、RedTactonのデモ機を体験することができた。たとえばトランシーバを装着したPDA端末を使い、握手しただけで名刺情報を交換するといったデモだ。また、美術館の音声ガイドに似たことも実現できる(写真1)。まず自身の言語を識別するために、「日本語」、「英語」と書かれたパネル上に立つ。それから説明を受信するパネル上に立つと、先ほど選択した言語に合わせた音声と映像を端末に取得できる。
ニーズが高いと考えられるのは入退室管理といった用途だ。ここではマンションのエントランスを想定したセットが用意されていた(写真2、3)。特定の地面にトランシーバを設置し、その上にカード型の送信機を持ったユーザーが乗ることでさまざまな動作を行なう。たとえば送信機を持つユーザーが所定の位置に立てば、郵便受けに手紙が届いていることをアナウンスし、ドアを解錠し入室できる。
ほかには、RedTactonを認証として用いたプリンタや、机の裏にトランシーバを設置したワークスペースが用意されていた。ここにPCカード型のトランシーバを挿入したノートPCを置くことで、ネットワークに接続するといった、いわばごく狭い範囲の個人用無線LANとして使うものである。
実用化への課題
実用化に向けて、不安要素としては人体と電化製品に対する影響が考えられる。
まず人体についてだが、人体の表面は電界が体内に入らないよい導体であり、いわばシールドが施されたケーブルのような状態になっている。
周辺の電化製品に対する影響に関しても、法律で定められた微弱無線の要件を満たしている。また気になるペースメーカーへの影響も検証されているが、RedTactonで使用する電界の出力レベルであれば問題ないという結果も出ている。つまり、人体や電化製品への影響はほとんどないというわけだ。
情報漏えいの危険性はどのような通信技術でもあるものだ。ただし、通信の範囲を体表面から数センチメートル以内に限定するという意味では、無線LANに比べて漏えいする範囲が減り、セキュリティが向上するという面はある。
一方、実用面で気になるのは、通信速度だろう。しかしRedTactonでは、極端な速度向上は必要ないとしている。なぜなら現状の速度で、認証に必要なデータのやり取りには充分であり、小さな端末に配信する分には動画のビットレートも足りるとされているからだ。
ラストワンメートルをつなぐ技術
RedTactonは、ユビキタスコンピューティングを実現するために必要な、新しい「ヒューマンエリアネットワーキング」として、非常に適しているとNTTは提案している。ヒューマンエリアネットワーキングは、将来的に人の周囲のいたるところに設置された機器から所持している端末への、ラストワンメートルともいえる距離で通信するためのネットワークである。
また、ユビキタスコンピューティングは、「意識せずに自然にネットワークに接続できる」からこそ利便性があるものだとしている。通信するたびに機器をかざし、ケーブルをつなぐのは面倒であり、現実的ではない。そこで、ユーザーがこれから通信するという意識を持つまでもなく、触る、通過するといった自然な行動の中にネットワークに接続する仕組みがなければならない。
さらに、デジタルデバイドと呼ばれる情報弱者にこそ、RedTactonのような通信技術に意義があるものだとも考えている。意識せずに自然にネットワークに接続できるというメリットは、操作が必要な既存の通信デバイスを活用しきれないユーザーがもっとも体感できるはずである。
ネットワークマガジン2008年1月号より転載