仕事に追われ「最近、小説を読んでないなぁ」と感じているビジネスマンも少なくないだろう。しかし、時として小説は未来を見据える先見力を養うのに、格好の教材となりうる。『文学賞メッタ斬り!』の共著者としておなじみの「トヨザキ社長」が、ビジネスに役立つオススメの一冊を贈る。
『暗号名サラマンダー』
著者:ジャネット・ターナー・ホスピタル
不可避の危機”管理術を知りたいなら
「危機管理はちゃんとできてんだろなっ」
IT系働きマンの皆さんてば、きっと上司という名の抑圧装置から日々そんな恫喝を受けてらっしゃるんでございましょ? でもね、そりゃ「2000年問題」みたいに頑張れば回避できる危機ならようございますけど、たとえば9・11の時にワールド・トレード・センタービルの中にいた働きマンの皆さんを襲ったような危機をどう管理すればいいってんでしょ。というわけで、今回ご紹介申し上げたいのが、ジャネット・ターナー・ホスピタルの小説『暗号名サラマンダー』なんですの。
物語の中核をなすのは、イスラム教原理主義のテロ集団「ブラック・デス」による国際線旅客機のハイジャック事件です。犯人たちは途中22人の子供たちこそ解放したものの、最終的には残された大人の乗客もろとも機体を爆破。その13年後、解放された子供の1人サマンサは、生存した仲間たちのサポート・サイトを運営しながら、事件の謎を執拗に追っています。
彼女はやはり同じ事故で母を失ったローウェルに連絡を取ろうとしますが、いまだ事故のトラウマから解放されていないローウェルは接触を断固拒否。が、その頃、米国政府機関職員であるローウェルの父メイザーが不審な事故死を遂げるのです。生前、寝ている最中もうなされるほど「シロッコ」と「サラマンダー」という名に苦しめられていたメイザーは、息子にハイジャック事件に関するビデオ・テープと暗号化された文書を遺していて――。
ミステリー的には、ハイジャック事件の真相、事件とメイザーの関わり、そのふたつの謎の興趣が問われる作品ではありましょう。とすれば、たとえば乗客の顔ぶれが都合よく配されすぎていたりといった設定上の無理はありますし、事件の真相に関しても、白黒はっきりつけてほしいタイプの読者には不満が残る曖昧な結末になっていますから、物語にカタルシスを求めるあまりそれ以外の要素(文体とかテーマとか描写)を枝葉扱いするジャンル小説信者にとっては、すごーく面白い小説とはいえないのかもしれません。
でも、そんなささいな傷が何だってんでございましょうか。
作者はこの小説の中で、避けがたい災厄として、かつてダニエル・デフォー(『ロビンソン・クルーソー』の作者でしてよ)やカミュが著作でその恐怖を描いたペストにテロリズムを例えています。そうした備えることも回避することもできない災厄を前に無力な人間が、死に臨んで自らの尊厳を必死で保とうとする姿や、想像力をたったひとつの武器に圧倒的な闇と悪意と絶望に立ち向かう姿の痛ましい勇気を描いて、これは単なる謀略小説の域を超えて意義ある小説になり得ていると、わたしは思うんですの。
「サラマンダー」の口を通して、科学兵器が人体に対しどのように効果を発揮するか、それがどれほど苦しい死をもたらすかが淡々と語られる第5部第5章のまがまがしさ。その対極にあるのが、メイザーが息子ローウェルに遺したビデオ・テープの内容が明かされる第7部です。正視するのがつらすぎる映像であるにもかかわらず、そこには科学兵器を作り、行使するモンスターのような人間に対する不信感を拭ってあまりある、素晴らしく感動的なヒューマニズムが横溢しているのです。
作者はカミュのこんな言葉を引いています。
「ペストの時代でわれわれが学んだものは、人間には軽蔑するところより称賛するところのほうがはるかに多くあるということである」
テロの時代たる今、わたしたち“生存者”はそう言いきれるでしょうか。本当の意味で“今ここにある危機”といえるのは、実は常に人間の心なのではないでしょうか。多くのことを深く問いかけてくる、いろんな意味重い傑作にちがいありません。
あ、でも、IT系働きマンの皆さん、出張で飛行機に乗ってる時には読んじゃダメ。
豊崎 由美(とよざき ゆみ)1961年生まれのライター。「本の雑誌」「GNIZA」などの雑誌で、書評を中心に連載を持つ。共著に『文学賞メッタ斬り!』シリーズ(PARCO出版)と『百年の誤読』(ぴあ)、書評集『そんなに読んで、どうするの?』『どれだけ読めば、気がすむの?』(アスペクト)などがある。趣味は競馬。
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