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トヨザキ社長が選ぶこの本くらい読みなさいよ! 第3回

“美しい日本語”に触れてみたいなら

2007年06月22日 12時00分更新

文● 豊崎由美

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仕事に追われ「最近、小説を読んでないなぁ」と感じているビジネスマンも少なくないだろう。しかし、時として小説は未来を見据える先見力を養うのに、格好の教材となりうる。『文学賞メッタ斬り!』の共著者としておなじみの「トヨザキ社長」が、ビジネスに役立つオススメの一冊を贈る。

『めぐらし屋』
著者:堀江敏幸

“美しい日本語”に触れてみたいなら

めぐらし屋

ハイコンセプト
著者:堀江 敏幸
出版社:毎日新聞社
価格:1470円(税込)
ISBN-13:978-4620107110

 言葉は生き物だから、その時代時代で新しい言葉や言い回しが生まれるのは大賛成なのだけれど、古い言葉や美しい言葉が隅のほうに追いやられ、忘れ去られるのはいかがなものかっ。言葉は文化。古いものと新しいもの、美しいものと汚いもの、さまざま交じり合って日本語をより豊かにしていくことこそが肝要と存じあげたてまつり候なんですの。というわけで、「氏ね」とか「逝ってよし」「ギザカワユス」といった言葉が大好きかもしれないネットの住人、IT系ビジネスマンの皆さんに熱烈推薦したい美しい日本語の操り手が、堀江敏幸なんであります。

「毎日新聞」日曜版に連載されていた『めぐらし屋』には、わくわくするような波瀾万丈の物語はありませんし、驚天動地の謎が仕掛けられてもいませんし、美男美女やスーパーヒーローが登場するわけでもありません。そこには自分がいる此処とあまり変わらない世界があり、自分が知っている人たちとさほど違わない登場人物らがいて、自分と似たようなことを思ったりしているんです。なのに、引き込まれてしまう。そこにある、一見わたしの此処と似ている世界の居心地がいいあまり、小説を読み終えるのがひどく残念に思えてしまうんです。っんとに地味な物語なのに。

 主人公はビルの管理会社に就職して20年近くになる独身の蕗子(ふきこ)さん。物語は、父親のアパートで遺品の整理をしていた蕗子さんが、表紙に筆ペンで「めぐらし屋」と大書きされたノートを見つけるところから動き始めます。なんだろう、このノートはと蕗子さんが首をひねっていると、かかってきた一本の電話。「……めぐらし屋さん、ですか?」。電話の声の主に、父親を紹介した人物の名を尋ねると、近隣では有名な酒造会社の大旦那だということが判明。蕗子さんは事情を知るために、立派な土塀に囲まれたお屋敷を訪ねていき――。

 母親と離婚して以来、年に一度会うか会わないかになっていた父。本当は「路子」だったのに、役所で書き間違えて「蕗子」にしてしまった父。子供の頃に描いた黄色い傘の絵を大事にとっておいてくれた父。若い頃、池に転落して溺れていた少年を助けて新聞に載ったことを自慢もせず黙っていた父。「わからないことは、わからないままにしておくのがいちばんいい」と教えてくれた父。

「めぐらし屋」の謎をのんびり追ううち、「近しい感じはするのにその当時から抱えていた距離をなかなか詰めてくれない、あたたかい謎」だった父の記憶が、蕗子さんの中で再構築され、父の記憶に導かれるかのように自分自身のささやかな記憶もまた蘇ってくる。

 蕗子さんは思います。
「父が重ねてきた時間と大旦那さんのそれとでは相違があるはずなのに、何年何ヵ月、というくくり方をしたとたん、細部がすべて消え去って均一なものになる。数量化できないものが、数量化されてしまうのだ」

 蕗子さんが担当している倉庫の責任者・宗方さんはこう言います。 「ま、安全第一です。トラックの積み荷もひとの心も。運んでる荷は、ただの荷ですよ。下ろしちまえばそれでお終い。あとはなんの関係もない。でも、そういう荷だからこそ愛情を持って扱ってやるべきじゃないですか。二まわりくらい上の連中は、忙しいときだって品物は大事に大事に動かしてましたよ」

 進歩第一で先を急ぐあまり、何もかもをあっさり数量化して片づけ顧みることのない世界や、丁寧で誠実なつまり面倒な仕事を嫌がる人間に対する違和感を、声高にではなく、蕗子さんという「細かいところと抜けたところが、すごく平和に共存して」いる穏やかなキャラクターの言動を通して描くことで、この小説の世界はとても居心地のいい場所になりえているのです。

 個々人に流れる時間と、その中で蓄積されたり散逸したり、再び蘇ってくるかけがえのない記憶。堀江敏幸がこれまでの作品で繰り返してきたテーマが、この小説の中でも春先の柔らかな陽射しのように美しくて優しい文章で描かれています。短い物語ですけど、どうぞゆっくり味わって読んでくだしましね。

豊崎 由美(とよざき ゆみ)

1961年生まれのライター。「本の雑誌」「GNIZA」などの雑誌で、書評を中心に連載を持つ。共著に『文学賞メッタ斬り!』シリーズ(PARCO出版)と『百年の誤読』(ぴあ)、書評集『そんなに読んで、どうするの?』『どれだけ読めば、気がすむの?』(アスペクト)などがある。趣味は競馬。

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