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トヨザキ社長が選ぶこの本くらい読みなさいよ! 第10回

凝り固まった頭をほぐす、本物の生きた日本語に触れたいなら

2008年01月25日 12時00分更新

文● 豊崎由美

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仕事に追われ「最近、小説を読んでないなぁ」と感じているビジネスマンも少なくないだろう。しかし、時として小説は未来を見据える先見力を養うのに、格好の教材となりうる。『文学賞メッタ斬り!』の共著者としておなじみの「トヨザキ社長」が、ビジネスに役立つオススメの一冊を贈る。

『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』
著者:川上未映子

凝り固まった頭をほぐす、本物の生きた日本語に触れたいなら

先端で、さすわ さされるわ そらええわ

著者:川上未映子
出版社:青土社
価格:1365円(税込)
ISBN-13:978-4791763894

 2008年1月17日、第138回芥川賞は川上未映子の『乳と卵(ちちとらん)』が受賞いたしました。わたしは「文学賞メッタ斬り!」という副業もこなしているのですが、その予想も珍しく当たって、こいつぁ春から縁起がいいやってなもんや三度笠なんであります。昭和のギャグで申し訳ありません。

 受賞作『乳と卵』は豊胸手術を受けるために大阪から上京してきた姉・巻子と小学6年生になる娘・緑子、東京で2人を迎えた「わたし」が過ごす2泊3日の出来事が描かれた小説です。巻子は離婚してホステスをしながら緑子を育ててきたのですが、豊胸手術を受けるにあたって何十軒も病院を調べてきたという姉の真意が「わたし」にはよく理解できません。それは娘の緑子とて同じらしく、彼女はある時から母親と口をきかなくなり、会話は小ノートでのメモで行い、大きなノートには生理のことや卵子や精子に関する疑問などを書き綴っています。
 素晴らしいのはクライマックスシーン。翌日病院に行くと出かけたのに、 離婚した夫と会って遅く帰ってきた巻子に緑子が感情を爆発させ、「ほんまのことをゆうてや」と豊胸手術の真意を問いただそうとします。それを笑いでいなそうとする巻子に、緑子が自分の頭に玉子をぶつける行為で抗議する場面を、川上さんはこんな風に描いているんです。

緑子は急に顔をあげて大きく息を吸い込んで(略)、玉子を右手に握ってそれを振り上げた。あ、ぶつける、と思った瞬間に、緑子の目からはぶわっと涙が飛び出し、ほんとにぶわりと噴き出して、それを自分の頭に叩きつけた。ぐしゃわ、っていう聞き慣れない音とともにしぶきのように黄身が飛び散り、それから、お母さん、お母さん、と連呼しながらすでに叩きつけたのをさらに何度も叩きつけ、髪のなかで泡だった、割れた殻が突き刺さり、耳の穴からも黄身が垂れ、額をなすりつけるように手のひらで押しまわし、ぼたぼたと泣きながらパックからさらにもう一個を手にとって、なんで、と息を吐くように云い、お母さんは、手術なんかしようとすんの、と云ってそれを叩きつけ、白身と黄身がかぶさる様に緑子の額を垂れてゆき、」

 あ、いかん、また深く感動してしまった。何度読み返しても胸がじんとしてしまうわたくしなんですの。で、この後起きる出来事にさらに、じん。IT系ビジネスマンの皆さんにおかれましては、普段、無味乾燥な報告書のたぐいを書かされたり読まされたりしていると思うんですが、ダメよ、ダメ。そんな体温のない言葉ばかり内に取り込んでたら、心が砂漠化しちゃうもの。

「(妹の「わたし」に自分の乳首を見せて「黒いやん。あたしの黒くて巨大やん。知ってるよ、あたしのがきれいでないってことは」とキレ)あたしも子どもを生むまえはゆうてもここまでじゃなかった、(略)色も大きさも何でここにお菓子のオレオがっていうこれはないよ。ま、オレオの今はまだましで、最強の時はアメチェ色、知ってる? アメリッカンチェリーな。あの色、すんごい色な。ただの黒じゃないな。赤が混じった黒っていうかな。大きさもな。なんていうの、乳首だけで、乳首部だけで余裕でペットボトルの口くらいになってさ、先生にあたし、こっれ赤ちゃんの口に入るかなあって真剣に云われたし、今まで何万個も乳首みてきた先生が腕組んでうなるっつうぐらいのもんやったし、」

 あ、いかん、また大笑いしてしまった。ね、いいでしょ、川上さんの内から湧き出てくる言葉って。なんか温度高いじゃん。温度高くて質感があるじゃん。呼吸してるじゃん。本物じゃん。わたしはこういう生きた言葉に触れてないと、正気が保てないんですの。体裁ばっか取り繕った空虚な言葉に囲まれると、頭がかゆくなっちゃうんですの。
 ね、だから、IT系ビジネスマンの皆さんにも、毎日少しずつでいいから川上未映子の言葉に触れてほしいんです。ちょうど、短い小説が7篇収められた『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』が出たばかり。散文詩のような文章で綴られた、ストーリーがまったくかっちりしていない小品ばかりですから、ビジネス文書によってかっちんこっちんにフリーズしてしまったあなたの言葉のリハビリにはちょうどいいのではないかと。

 表題作以外のタイトルだけ記しておきましょうか。「少女はおしっこの不安を爆破、心はあせるわ」「ちょっきん、なー」「彼女は四時の性交にうっとり、うっとりよ」「象の目を焼いても焼いても」「告白室の保存」「夜の目硝子」。
「彼女は四時の――」から読み始めたい気持ちはよぉーくわかりますけど、リハビリですから無理は禁物。この小品集を楽しむコツは比較的物語性が高い「告白室の保存」から読み始めることと思う次第です。大丈夫、こっちも“性交”がらみの話ですから。いや、そんな冗談かましてる場合でなく、川上未映子は21世紀の日本文学の旗手となりうる逸材なんであります。流行に敏感なIT系ビジネスマンの皆さんなら、やっぱり読んでおかなくちゃ。でしょ?

豊崎 由美(とよざき ゆみ)

1961年生まれのライター。「本の雑誌」「GNIZA」などの雑誌で、書評を中心に連載を持つ。共著に『文学賞メッタ斬り!』シリーズ(PARCO出版)と『百年の誤読』(ぴあ)、書評集『そんなに読んで、どうするの?』『どれだけ読めば、気がすむの?』(アスペクト)などがある。趣味は競馬。

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