ASCII.jp読者ならば秋葉原は「庭」みたいなもの。とはいえ、ここ数年間の秋葉原の変わりように驚嘆している人も多いはず。
一番変貌を遂げた場所の1つが、「秋葉原ダイビル」と「秋葉原UDX」の2棟の超高層ビルで構成される「秋葉原クロスフィールド」だろう(関連記事)。このビルのおかげで、秋葉原駅前の景観と人の動線がガラリ変わった。
今回、インタビューしたのは、この秋葉原クロスフィールドの仕掛人、妹尾堅一郎(せのおけんいちろう)氏だ。
妹尾氏は、現在、NPO産学連携推進機構理事長で、東京大学の国際・産学共同研究センター客員教授を勤めつつ、産官学の各団体と地元商店街や町会連合会と一緒に「秋葉原テクノタウン構想」を推進中。この数年間に渡る活動と、今後の方針についてまとめた「アキバをプロデュース」という新書が13日に発売された。
みんなのアキバをプロデュースした人は一体どんな人物なのか。妹尾氏のアキバへの思いや、今後の構想なども語ってもらった。
「僕はアキバオタクじゃない。でもアキバにほれている」
「誤解を受けたくないので先に言っておきたいことがあります。1つは、僕はアキバ育ちではなく、近くの台東区谷中で生まれ育ったということ。アキバは地元ではなく、『準地元』としてアキバを知っている立場なんです。2つ目は、僕はアキバオタクやテクノ系の人間じゃない。社会系で、技術ははなはだ弱いんです。むしろ映画青年だったから、本来はコンテンツが得意。そして3つ目は、アキバよりも銀座のほうが好きなことです。学生時代の卒論は『銀座』を題材にしたほどですから」
話を始めようとした途端に、妹尾氏がこう切り出した。まるで秋葉原が好きじゃないと言っているのだろうか?
「いえ、むしろその逆。でも地元民でもなく、昔からアキバに通い詰めたテクノ人間でもなく、何があってもアキバにいれば幸せというタイプでもない自分みたいなヤツが、アキバにほれているのはなぜか? というところなんですよ」
どうやら秋葉原に対する愛は、盲目的ではなく理由があるということだろう。
技術と街づくりを「クロスフィールド」
妹尾氏が生まれ育った谷中といえば、JRで言えば「鶯谷駅」や「上野駅」のあたり。東京芸術大学や、徳川家の墓地がある寛永寺が有名なスポットで、秋葉原からたった2、3kmの距離になる(Google Mapsの地図)。さらに、ご両親はそれぞれ神田駿河台と神保町の出身なので、神田周辺に対する親近感はより強いはず。
「谷中からアキバは、自転車で来れる距離です。子供の頃は歩いて遊びに来ていました。やはり面白かったからね。もっとも僕は、アメ横のバナナの叩き売りのほうが好きだったんだけど。でも、最初に買ったマイコンは九十九電気だったし、それからもコンピューター関連の買い物はすべてアキバ。すごく面白いところだと思っていて、ずっと付かず離れずの距離にいました」
そんな立場から見ていると、テクノロジーというのは可能性と危険性の両面を持っているので、秋葉原が変な方向に行ってしまうのを心配していたという。
「先ほど僕はテクノ系の人間じゃないと言ったけど、メーカー出身なので『モノ作りとはどんなことなのか』を身をもって知っています。例えば、日本で最初の8インチフロッピーの製造が追いつかず、徹夜で作ったこともあります。これホントですよ(笑)」
妹尾氏は大学卒業後に写真フイルムメーカーに勤務し、その後、大学の研究職に身を転じた。
「それから社会系の研究者に転身して、街づくりや、知的財産、科学技術を事業化して社会に役立てるプロジェクトなどをやってきました。技術の専門家ではないけれど、情報が『クロスフィールド』する位置にいることができたから、秋葉原の再開発に生かせるのではないかと、このプロデュースを引き受けたんです。実際、僕だから技術と街づくりを一体化させて進めることができたと自負してます」
秋葉原クロスフィールドというテクノ拠点、秋葉原という街、そこに集う人間が出会うと何ができるのか。それが妹尾氏のNPOが進めている「秋葉原テクノタウン構想」という、秋葉原の技術を生かして街全体がテーマパークになるような街づくりだ。
妹尾氏は、これまで「秋葉原クロスフィールド」において、「アキバ理科教室」「アキバ・ロボット文化祭」「アキバ・ロボット運動会」などの数々のイベントを行なってきたが、これらも秋葉原で開催されるからこそ期待して参加した人も多いだろう。
(次ページに続く)

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