津田氏「規制と自由の間で最適なバランスを探るべき」
インターネットやIT技術が発達したことで、情報の受け手に過ぎなかった個人が、送り手になることができた。これは人々の情報リテラシーが格段に上がったことを意味すると思います。
あらゆる情報がデジタル化されて自由に流通することで、人々がコンテンツに触れる機会が増えているし、その結果多様なコンテンツも生み出された。情報が自由に流通することは、文化的に豊かな状況をもたらしているのではないかと、個人的には感じています。
もちろんインターネットの自由はいいことばかりではなくて、いわゆる「デジタルデバイド」といわれている、情報を持つ者と持たざる者の格差や、個人情報やプライバシーの侵害、匿名による誹謗中傷/名誉毀損といった問題も生み出してきている。
また、ネットワークの自由奔放さが、コンテンツの著作権侵害を起こしているのも厳然たる事実でしょう。自由なネットワークがもたらす、法的な問題がクローズアップされてきているのが状況としてあるでしょう。これらの問題はネットワークが自由であるがゆえに起こるものだと考えています。自由であるがゆえに、古い制度に縛られている。
こうした社会的なデメリットにどう対処していくのかというときに、どうしても規制する方向にしか議論が進まないというのが問題でもあるし、難しいところであるとも思う。
本来、社会的な状況や人々の情報リテラシーに合わせて、規制と自由の間、中間のところで最適なバランスを探るべきなのですが、現実はあまりそうなっていない。なぜそうなってしまっているのかというと、ネットワークの自由を主張し、組織的に擁護する組織的な主体がないからだと思っている。
この理由を主にネットワークやIT技術がもたらすメリット/デメリット、もっといえば社会的なコストを冷静に議論する環境を作る必要があるのではないかと考えて、MiAUを作ることに決めました。
白田氏「ニコニコしているだけだと、どんどん居心地が悪くなる」
今日の僕の演題は「ネットワーク時代の政治参加」と割と固めなんですが、一言で言ってしまうと「みんなちょっとまじめに取り組もうよ」という話なんです。
今回のMiAUの設立に関して僕が一番懸念していたのは、どうもネットワークにいる一般的な人々の意見をまったく無視した形で政治的な過程が進んでいるということです。
著作権制度の細かい調整や業界の都合があるというのは分かっていますが、どうも進め方があまりにも強引。一応、パブリックコメントを受け付けるとは言ってはいますが、業界の組織票が出てきてそちらの方の声がでかいとか、ぶっちゃけて言えば「一体どこが民主主義なのか」ということなんですよね。
だから今回僕が参加してムーブメントを起こそうと思っている一番のポイントは、「もう少しネットワーカー達がもっと声を上げていいんじゃないか」という点になります。
ネットでこれを見ている皆さんに伝えたいんですが、「みゃっうみゃう」に盛り上げていければいいんじゃないかなと思っています。
ニコニコ動画や「ニコンドライフ」の構想に関して、ひろゆきさんが、「圧力には微笑みで。線がはっきり分かって誰もニコニコしていないのと、線がおぼろげで見えないけれどみんながニコニコしているのとどっちがいいのか」と、面白いことを言っていました。私は「ニコニコ的アプローチ」と呼んでいるんですが、マジで対立関係に入っていくのではなく、にっこりと笑いながらさらりとかわしていくアプローチはスマートでかっこいいなと思います。
ただ、とても悲しい現実なんですが、私たちを縛ろうとする権力や法、制度というのは、機械、つまりシステムなので人格を持たない。だから「ニコニコ」が効かないんだと私は思っています。あいまいにしていて私たちが微笑んでいるだけだと、どんどん私たちの側に入ってきて、私たちの自由を削り取っていく。
もちろんそれが悪いものだと言っているのではなくて、それに対してわれわれがきちんと善し悪しを示しながら、自分の立場を表明していかなければならないのだと思います。それが今できていない。
にっこり笑って、ふやっと誤摩化していくと、どんどん居心地が悪くなっていくというのは、古参のネットワーカーだとよくわかっていると思います。だからMiAUのアプローチというのは、恐らく泥臭く見えるし、かっこわるいと見る人もいるかもしれませんが、私たちがニコニコするために誰かがやらなければならない汚れ仕事なんだと思っています。
小寺氏「戦う相手があるとすれば『悪法も法』という思想」
われわれは権利者やメーカー、放送事業者などと敵対するための組織ではありません。これらの方々が潜在的にお持ちの、加速していくITテクノロジーへの恐怖感や不信感を取り除き、消費者とデジタルコンテンツの供給者との間に「Win-Win」の関係もたらすべく活動します。
もし仮に戦う相手があるとするならば、それは「悪法も法」というような思想だと思います。
この考え方は、本来は裁判所が法の運用、あるいは執行を行なう場合に用いられるべきもので、一般市民がそういうものを考えるべきではありません。
現在のコンテンツ市場がおちいりつつある「ルールは決めたもん勝ち」というあり方に対して異を唱えるということです。習慣があってそれが法になるというような「慣習法」のあり方に従えば、現在すでに出来上がりつつある習慣の中に、まったくそれとは相容れないルールを持ち込む方法論に対して戦うということが言えるかもしれません。